【角川春樹事務所】
『うたう警官』

佐々木譲著 

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 警察用語で「うたう」とは、「証言する」とか「密告する」とかいう言葉と同義で、つまるところ組織を裏切ることを意味するという。ここでいう「組織」とは、もちろん警察庁のこと。すべての警官にとって、自分が属している警察を売るような行為は、本人にとってだけでなく、組織にとっても大きなマイナスであり、それが警察ともなれば、その影響は計り知れないものがあるだろうことは、想像に難くない。だが、たとえば警察内で組織的な不正がおこなわれているとして、それを正す目的でその情報を意図的に外にリークすることは、はたして「うたう」ことになるのだろうか。いや、たしかに警察という組織にとっては裏切り行為であるのかもしれないが、あきらかに良くないことが警察内で行なわれていることを知ったうえで、それを知らぬふりしつづけるというのは、一警官として正しいことをしていると言えるのだろうか。

 どのような組織もそれが人の集団である以上、けっして間違いが起こらないということはないし、人間と同じように後ろ暗いところ、闇の部分があるということを私たちは知っている。「私はうたっていない」という日誌の言葉を残して、ある警官がピストル自殺をはかるというショッキングな場面からはじまる本書『うたう警官』は、そのタイトルにもあるように、警察庁にとっての「うたう警官」、つまり密告者をめぐる一連の出来事を描いた作品であり、通常であれば事件の犯人対警察という構図で進むはずの物語が、同じ警察内で最終的にはふたつに分裂して争うという様相を呈するところが、ひとつの大きな特長だといえる。

 札幌市内のアパートで発見された女性の変死体――札幌方面大通警察署の捜査官たちによる調査の結果、その遺体の女性が北海道警察本部の生活安全課に所属する婦人警官であることが判明する。だが、その直後に道警本部が捜査に介入、所轄内で起こった事件であるにもかかわらず、所轄刑事たちは捜査から外されることになる。容疑者として本部の捜査線上に浮かび上がってきたのは、被害者の女性と交際していた本部所属の現職警察官、津久井巡査部長。道警本部は彼が覚せい剤吸引と拳銃の所持の可能性が大と判断、彼の射殺も辞さない構えで指名手配することになる。

 物語は、道警本部の強引ともいえる被疑者特定と、あまりに過激なその命令に疑問をいだいた大通署刑事の佐伯宏一警部補が、津久井は事件の犯人ではないという確信のもと、捜査を外された有志刑事たちを募り、今回の事件について独自に捜査を進めていくという展開となる。こうして、表面上は殺人事件の解決をめぐって大通署有志と道警本部が張り合うという対立構造が生まれることになるのだが、そこには単に捜査権をめぐる警察独自の複雑な上下関係や対立構造とはまったく別の要因があった。

 一昨年に世間を揺るがした、道警本部生活安全部所属の郡司警部の不祥事――摘発した拳銃を不法所持し、覚せい剤の密売行為に手を染めていたという事件において、津久井は彼の直接の部下であったのだが、じつはこの事件の背景には、道警本部の不正経理問題が絡んでいると言われており、その是非をめぐって、北海道議会は津久井を証人として招致することになっていた。

 警察の捜査に協力した市民に対してある一定料支払われるという報償金が、キャリアのポケットマネーとして横流しされているというのは、道警のあいだでは周知の事実なのだが、一昨年の郡司事件で道警本部はその不正を正そうとしなかったばかりか、警察官を同じセクション、同じ地域に長く置いておくことが不正を生む原因であるとして、ベテラン刑事を含めて警察官たちを畑違いの部署に送り込むという大人事を敢行するという愚挙に出ていた。その結果として、今回の婦警殺人事件においても、大通署刑事たちのなかには場数を踏んだベテランがひとりもおらず、本来であれば得られたはずの情報を見落とすことになり、それゆえに署の警察の大半は、道警本部の捜査結果をうのみにするしかないという状況に陥っている。

 そうした本部の動きには、キャリアたちの自己保身に走るさまがありありと見えており、つまり、佐伯たちが道警本部と対立する形で独自捜査を強行する背景には、そんな迷走をつづける本部に対する苛立ちがあったのだ。そしてその迷走が長くつづけば、警察の本来あるべき最低限の形さえ崩れてしまうことになる。もちろん、佐伯と津久井との特別な信頼関係もあることはある。だが、それ以上に本書の対立構造には、腐っていく警察という組織を正す意味で、なんとしても津久井の身の保全をはかり、彼の証人としての招致を敢行させるという目的がある。

「もし、正義のためには警官がひとりふたり死んでもかまわないってのが世間の常識なら、おれはそんな世間のためには警官をやっている気はないね」

 津久井に手配がまわったのが午後3時、証人招致が翌日の午前10時。けっして多いとは言えない時間と人員でもって、はたして佐伯たちは事件の真犯人を特定し、津久井の指名手配を取り消し、彼を無事証人として立たせることができるのか? 正直なところ、その複雑な事件の背後を語るには文章が足りず、佐伯たちの事件の真相を追う段階も、あくまで状況証拠に頼る部分が多いため、ともするとご都合主義のごとく物語が進んでいるように思えるが、そもそも大通署刑事として集められた警官たちが、道警本部の身勝手な人事によって、それらの経験もないままに捜査をしなければならないという背景があるとすれば、それなりに納得のいくものがある。そしてそれは、彼らがたどり着いた事件の真相そのものについても、同じようなことが言えるのだ。

 組織であるがゆえの優位性と、組織であるからこその弊害――警察という、もっとも法とモラルを重んじるべき組織における、あまりに人間的な側面を映し出した本書に、はたして読者はどのような感想をいだくことになるのだろうか。(2008.10.09)

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