【岩波書店】
『中谷宇吉郎随筆集』

樋口敬二編集 



 雪が大気中で凍った氷の結晶であることは、おそらく誰もが心得ていることだろう。その結晶が、しばしばデザインなどでも用いられる六華形をはじめ、さまざまな形態の美を持っている、ということも、ご存知のことだろうと思う。実物は見たことなくても、テレビや写真といった媒体で目にしたことがある、という方も多いのではないだろうか。私もそのひとりである。

 あらためて考えてみると、人の目には見えない小さなものであるにもかかわらず、ああした精緻な模様を形づくる雪の結晶というのは、なんと不思議で、そして神秘的なのだろう。雪の結晶ばかりでなく、たとえば蜘蛛の巣の放射状形や、蜜蜂の巣の六角形、巻貝の螺旋形など、自然のなかには多くの幾何学的で美しい造形があるものだが、ふだんの私たちはそうした造形を、ただそこにあるものとして捉えるのみで、そこから「なぜ」という問いを発するようなことは、ほとんどない。だが、たしかにそれはひとつの「不思議」であって、であれば、私たちの日常には案外、そうしたたぐいの「不思議」が溢れている、と言えるのではないだろうか。本書『中谷宇吉郎随筆集』を読んでいると、自分の周囲がにわかに神秘のワンダーランドのように見えてくるから不思議なものである。

 雪の結晶はなぜ、あのような形となるのか。どのような条件のときに、どのような形の結晶が形づくられるのか――本随筆集の著者、中谷宇吉郎は、私の実家のほんの近くにある石川県片山津で生まれ、後に「雪博士」として知られるようになった物理学者である。本書はそんな彼の残したさまざまな随筆の一部を選んで収録した本であるが、彼の雪の結晶に関する研究の話を読むと、いかにも雪の結晶に魅せられた人らしく、たとえば雪の結晶をいろいろな角度から切り離してみたり、また結晶の側面からの写真をなんとかして撮ろうと苦心したり、といったさまざまなエピソードがあって面白い。そして面白いだけでなく、文章のほうもずいぶんと巧みである。「夕方になると大抵は美事な樹枝状の結晶が細雨のように音もなく降って来る」などという表現をさらりと使ったりするのだが、とくに下の文章などは、雪の結晶を表現したもののなかでは最高傑作ではないだろうか。

 水晶の針を集めたような実物の結晶の巧緻さは、普通の教科書などに出ている顕微鏡写真とはまるで違った感じであった。冷徹無比の結晶母体、鋭い輪郭、その中に鏤められた変化無限の花模様、それらが全くの透明で何らの濁りの色を含んでいないだけに、ちょっとその特殊の美しさは比喩を見出すことが困難である。

 科学、とくに物理学などというと、私の場合、なにやら複雑な公式や計算が出てきたり、難しい実験をおこなったり、というイメージが強くて、私はそうそうに投げ出してしまった記憶がある。およそ、物理学などというのは私たちの日常とはかけ離れたところにあるもの、というふうにずっと思ってきたのだが、本書を読むかぎりにおいて、そうした認識はあらためざるを得ないようだ。著者もまた、本書のなかで何度も「平凡な日常の中に不思議を見つけること」もまた、科学の重要な要素だと説いている。

 じっさい、本書に集められた数々の随筆を読んでいると、著者が雪の結晶にかぎらず、じつにいろいろな事柄について興味をもち、またいったん興味を示した事柄については、物理学的に考察し、研究や実験を重ねずにはいられなかった人であったことがよくわかる。墨絵を描いていても、どうすればうまく描けるのかを考えた結果、墨の色や紙、描く素材や墨の重ね方などといった要素をとことん分析しているし、貝鍋を食べていても、その旨味の成分が何なのかについて頭を巡らせる。「春分の日に卵が立つ」という記事が出れば、その真偽をたしかめるべくさっそく卵を立ててみて、別に春分でなくても卵は立つものであることを物理学的に証明してしまったりもする。

 著者の手にかかると、これまであたり前だと思っていた知識や、過去に大勢の人たちが議論してきた古びた事柄が、まったく新しい「不思議」となって私たちの前に立ち現れてくるかのようである。それだけ著者の、周囲に向ける視線が特異なものだということなのだろうが、平凡な日常の中に「不思議」を見つけてしまう、という意味では、著者はまぎれもない物理学者だったと言うことができるだろう。だが、そこから連想されてくるイメージは、たとえば北村薫の『空飛ぶ馬』に登場する噺家の円紫師匠や、あるいは加納朋子の『ななつのこ』に登場する作家の佐伯綾乃のように、何気ない日常から鋭い洞察力でさまざまな事実を見出してしまう「先生」のようなものである。

「本統の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである」と説いた中谷宇吉郎――本書解説によると、著者は当時の幸田露伴をはじめとする文学者たちとも交流があり、文学作品を科学的にとらえてみる、といったようなことも行なっていたようである。文学と物理学――今では到底結びつきそうもない分野がたしかに結びついていた時代が、かつてあったこと、そしてそんなかつての文学者たちと肩を並べるような存在として著者があり、文学に、そして日本の文化そのものに大きく貢献していたということが、本書のなかには書かれている。

 科学万能の神話が崩れ、科学の発達が必ずしも人類の幸福を導くものではないことを思い知らされた今の時代において、もし著者が生きていたとしたら、あるいは「それは科学が間違っているのではなく、それを用いる人間の心が間違っているのだ」とおっしゃるのかもしれない。(2002.09.08)

ホームへ