【双葉社】
『小森課長の優雅な日々』

室積光著 



「罪を憎んで人を憎まず」とはよく言ったもので、たしかに人間には何がきっかけとなって変わるかわからない、きわめて不安定な部分がある。かつては大悪党で、多くの罪もない人々を殺したり不幸にしてきた人間が、後に改心して善行をおこなうようになった、という逸話はけっこうよく聞く話であるし、そういう意味では、上述の言葉は人間に秘められた無限の可能性を指し示しているとも言える。人間は常に悪人というわけではないし、また誰に対しても善人というわけでもない。そもそも善悪の基準など人間によって定められたものであり、それゆえに正義や悪も、時と場合によって容易に変化していく、脆く儚い判断基準でしかないのだが、しかしそうした理屈と、個々の感情とはまったくの別物である。

 たしかに、人間は変わっていくことができるのだろう。だが、かつて大悪党だった人間が、改心して善行を進んで行なうようになるまでに、いったいどれだけの人間が辛酸を舐め、屈辱に耐え、そして泣き寝入りをしなければならなかったのだろうか、と考えると、暗澹たる気分になる。しかも、世の中にいる多くの悪党たちの、誰もが改心するという保障などどこにもないのだ。そんな心無い人たちによって踏みにじられた被害者たちの気持ちは、いったいどこへ向かってぶつければいいというのだろう。彼らが受けた不幸は、無視すべきだとでもいうのだろうか。

「昔ね、学生の頃。自動改札なんてまだなくて、駅員さんが鋏を入れていた頃、通る人みんなに挨拶してくれる駅員さんがいて、そこを通る人はみんな少しだけ幸福になってたんだ。それは小さな幸福だけど、積み重ねれば人の命を救ったほどの幸福になったと思うよ。その逆もあるよね。嫌な奴で周囲を少しずつ不幸にしてる奴。そんな奴の撒き散らす不幸は積み重ねれば人を二人か三人殺したくらいになりはしないかな。そんな奴に相応しい罰は何だと思う?」

 本書『小森課長の優雅な日々』は、非常にショッキングな作品だ。なんせ、人殺しの話である。それもひとりやふたりではない、最終的には3桁にもおよぶ大量殺人者の話だ。しかも、そんな殺伐とした内容であるにもかかわらず、読み手をじつに爽やかな気分にさせるという、きわめてひねくれた物語でもあるのだ。

 小森正一、40歳、ごく平凡な会社の中間管理職である彼の今の生活は、けっして幸福とは言えない状態にあった。不眠症、精神的な味覚異常で食事もあまりうまいと思わない、会社に行けば何を考えているのかつかみどころのない部下にイライラさせられ、家に帰ってきても家族とのコミュニケーションは疎遠になるいっぽうで、かつては魅力的だった妻ともほぼ没交渉。そのくせ、子どもじみた正義感だけは人一倍強いところがあって、他人のちょっとした、自己中心的な言動にはとくに強い憤りをおぼえるがゆえに、ストレスもたまりがち。そしてそのストレスが小森の人生にさらによくない方向へと押しすすめていく、という悪循環の毎日――だが、ある日小森は、通勤電車で痴漢の被害者をよそおって相手を責めたてる女性を、故意に駅のホームに転落させた。彼女はその手の行為の常習犯で、彼女のせいで多くの人が迷惑しているのを知ったうえでの殺人だった。そしてこの行為が、小森の人生を一転させる。

 たとえ、どのような理由があっても殺人は殺人であり、人の命を奪ったことに対する罪はけっして許されることはない。そう考えるのが普通であるし、それがまったくもっての正論でもあるのはたしかであるが、こと本書に関してはそんな常識などまったく通用しない。なにより、小森は彼女を殺したことに対して「いいことをした」という確信をいだいている。そしてその確信を支えているのが、上述の引用――たとえ小さな不幸でも、あまりに多く撒き散らせば殺人に匹敵する、というものである。それゆえに、著者は小森という登場人物に殺人を負わせながらも、けっして彼に罪の意識をもたせることをしない。それどころか、これ以上はないというストレス解消法をあみだしたかのように、彼の生活も悪循環を抜け出し、仕事も家庭もすべてが良い方向へと好転していくのである。

 人殺しを肯定するなど、なんと不謹慎な、とお思いの方もいらっしゃるかもしれない。だが、きっと誰もが「こいつ死んだほうが世のため人のためじゃないか」と思わせるような人間を、ひとりやふたりは思いつくはずである。それに、誰が見ても「どうしようもない悪人」が死んでいくのを見るのは、じつはとても気分のいいものである。でなければ、「水戸黄門」や「必殺仕事人」といった時代劇が、今もなお根強い人気を維持しつづけている理由がわからなくなってしまう。

 未成年だから罰されない、という理由で平気で人を傷つけ、あまつさえ殺人を引き起こす少年たち、あの手この手の詐欺行為をくりかえす詐欺師たち、人の業績を横取りし、才能もないのに才人ぶった態度で多くの関係者の神経を逆撫でする者――本書の面白さは、こうしたどこの世界にもいる「どうしようもない悪人」、しかしけっして現行の法律では死刑に値しないとされる者たちに下される死刑宣告への、ある種のブラックな爽快さもあるが、もうひとつ、最初は自分ひとりの判断で実行していた殺人が、しだいに彼の主義に賛同する仲間たちがひとり増え、ふたり増えるにつれて、しだいに殺人行為そのものが小森の手から離れ、本人の意思とは無関係にどんどんエスカレートし、ついには「殺人サークル」ともいうべき団体の「教祖」に祭り上げられてしまう、という展開にもある。言うまでもなく、本書にはリアリティなどおよそ皆無ではあるが、その逸脱ぶりもここまで極まると逆にすがすがしくさえ感じられるのだから不思議である。

 法が裁かない悪に対する個人的制裁や復讐を描いた作品については、たとえば宮部みゆきの『クロスファイア』や、黒武洋の『そして粛清の扉を』など数多いが、そこには必ず殺人という行為に対するストイックな、あるいは破滅的な感情が強調されてきた。だが本書の場合、小森自身がその正義について思い悩むこともあるにはあるが、基本的にその殺人によって彼の周囲はどんどん幸福になっていくという皮肉な事実がある。もちろん、現実の世界においてここまで話がうまくいくことなどありえはしないのだが、そもそも著者が『都立水商(おみずしょう)!』の作者であることを考えれば、誰もが心の中では思っていながら立場上、けっして口に出すことのなかったタブーにあえて目をつけたのは、ある意味必然であったとも言える。

 タバコのポイ捨て、自動車のあおり行為、指定日でもないのに平気で出されているゴミ――世の中にはとかく、ムカつくことが多すぎる、とお思いの方がいらっしゃれば、あるいは本書を読むという禁断のストレス解消を実行してみるのもいいかもしれない。(2004.09.10)

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