【日本文芸社】
『岸辺のない海』

金井美恵子著 



 とくに何も予定のない休日の昼下がり、開け放った窓からしのび込んでくる、秋の気配を伴った空気をかすかに感じながら、ベッドの上にごろりと寝転がってぼんやりと天井を眺めているようなとき、ふと自分という人間の存在のことが頭の中を占めることがある。自分がこの世に存在する理由――自分はなぜ生まれ、何のために生きているのか、という、けっして答えの出ることのない疑問の迷路の中に迷いこんだとき、あるいは私は、自分という人間のありとあらゆる情報を書き残しておかなければ、という切迫した思いにとらえられることがあるかもしれない。だが、ノートなりメモ帳なりをひっぱり出し、ペンなり鉛筆なりを手にとって自分のことを書きつづけていくことは、おそらくないだろう。そのような行為は、本書『岸辺のない海』の中にも書かれているとおり、「岸辺のない海をめぐる永遠の航海に、永遠の不可能の航海に出かけ」るようなものだから。

 純粋に、自分自身のすべてを書き記すこと――本書『岸辺のない海』がどんな小説なのか、と問われれば、おそらくこう答える以外にはないだろう。本書の冒頭で唐突に登場する「彼」という人物――その「彼」がいったい何者なのか、まったく何の説明もないまま、「彼」の行動、「彼」の思考、そして「彼」が「ぼく」という一人称を使って書いたと思われるさまざまな記録が、何の脈絡もなくただ繰り返されていくのである。そこにはストーリー性はおろか、人物設定やその背景、そして明確なテーマといったものすら存在しない。むしろ、そういった要素を意図的に排除していった結果として残った、正体不明の「彼」が「彼」の価値観にもとづいて書かれつづける、断片化された記憶のみが、本書には存在しているのである。ある意味で、これほど読者を突き放してしまった小説も珍しい。

 文章を書くという行為は、自分自身の一部を切りとって表現することと常に結びついている。それはどんな種類の文章であれ、また書き手が意識するしないにかかわらず、書くことに伴うそういった性質から逃れることは、おそらく誰にもできない。現に私が書いているこの書評にしても、多分に私という人間の情報が混じった、一種の自己表現だと言えなくもないのである。だが同時に、文章を書くことは、常にそれを見る読者がいることを想定しなければならないはずである。

 本書の場合はどうだろう。いったい、どんな読者を想定して、著者は本書を書いたのだろうか、と考えたとき、もしかしたら本書はどんな読者も想定していないのではないだろうか、というひとつの仮定へと結びつく。そこには、不完全な道具であるがゆえに自分の想いを正しく相手に伝えることも、また相手の言葉を正しく理解することもできない言葉に対する、諦念にも似た感情が隠されているように私には思える。

 きみはわかったと答えるかもしれない。けれど、きみがほんとうに、ぼくの喋った意味をわかっているのかどうか、そんなことはわかりゃしない。ぼくが今喋っているのは、こんなことさ。

 自分自身のすべてを書き記すこと――だが当然のことながら、どれだけ多くの言葉を尽くして書きつづけていったとしても、その記録はけっして完成することはないし、かりに書ききったとしても、その言葉の意味が正しく相手に伝わるかどうか、わからない。そもそもその記録は、誰の目にも触れることなく埋もれてしまう可能性だってありうるのだ。だが、それでも書きつづける――それがどんなに空虚で意味のない行為であるか理解していたとしても、それでもなお書きつづけるとき、そこに不特定多数の読者を想定する意味は消えうせ、ひたすら「彼」という名の個人の断片化された記憶のみが残っていく。そのような文章を書きつづけるためには、おそらく相当な文章力――ありとあらゆる事物を適格に文章で表現できるだけの力が必要となるだろう。そして著者の金井美恵子の描写に関するセンスは、純粋に文章力のみを使った、ひとつの魅力的な、そしてけっして油断のできない小説を作り上げることに成功した。

 それにしても、本書と向き合うことによって沸き起こるこの不安感は、いったい何なのだろうか。本書に書かれた「彼」のことが、読み進めていけばいくほど明確になるどころかますます曖昧になってくるように思えるのは、単に本書があらゆる設定を拒否したことだけが原因ではないはずだ。そこには、まさにひとりの人間が――どんな物差しを使ってもけっして測ることのできない、矛盾だらけの生き物である人間の姿が垣間見えるのだ。

 ストーリー性、人物設定、その他小説として必要だと思われる要素を排除することで、逆に人間そのものを強く感じさせる小説――言葉にするのは簡単だが、実際にそれを実現するのは並大抵のことではない。それをやってのけてしまった(しかも処女作で)金井美恵子という作家の底知れない力を思い知らされたように思う。(1999.10.07)

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