【講談社】
『神の名のもとに』

メアリー・W・ウォーカー著/矢沢聖子訳 

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 同じ人間であり、同じ言葉でコミュニケーションをとっているかぎり、話し合うことさえできれば必ずお互いに理解しあうことができる、と信じていた時期があった。その原則は今も基本的に変わらないが、しかしその「話し合う」ということが、場合によってはいかに困難な作業であるかということも、同時に理解しているつもりである。

 話し合う、ということは、自分の考えていることを正しく相手に伝えるというだけでなく、相手の言葉に真摯に耳を傾け、その主張を理解しようと努めることでもある。この基本認識がお互いのなかに成り立っていなければ、いくらお互いが言葉をつくして話し合ったとしても、それはけっきょくのところ、自分の主張をただ吐露するのと何ら変わりがないし、そもそも相手に話を聞こうという姿勢がなければ、会話そのものが成立しないのである。それでなくとも、言葉というものは不完全で、同じ言葉に対するお互いのもつ認識にズレが生じることなどしょっちゅうであり、そのズレを修正し、お互いがもっている世界を少しでも近づけていくためにはけっきょくは根気よく話し合うことしか道はないはずなのに、その唯一の道を、ときに人は容易に断ち切ってしまうことがあるのを、これまでのけっして長くはない人生のなかで、それでも何度かは体験したことがある。

 話し合いが通じない、そもそも話し合いにすらならない、という状況は、それ自体が不幸なことでもある。だが、そうした状況はこの世の中にはいくらでも見出すことができるし、もしかしたら、私たちは生涯誰とも本当の会話などできないのではないか、とさえ思ってしまうことさえある。たとえば、戦争によって兵士として駆り出され、戦場で戦ったことのある人たちの心情、何年にもわたってひそかに殺人を犯し続けてきた殺人鬼の心理、犯罪に巻き込まれ、死んでも不思議ではない重傷を負いながらも生還した被害者の恐怖、そして新興宗教の教えに身を染めて、現実世界そのものに背を向けてしまう熱心な信者の気持ち――正直なところ、もし私に彼らの話を聞く機会が与えられたとしても、おそらくその語られる事柄を真に理解することはできないだろう。だが、もしそれでも彼らの心情に近づきたいと思うのであれば、私にできることはせいぜい、事実をありのままに記憶することくらいだろう。

 本書『神の名のもとに』は、前作『処刑前夜』につづく、犯罪ライター、モリー・ケイツのシリーズ三作目にあたる作品で、今回彼女がかかわることになるのは、狂信的カルト教団「ジェズリールの家」の教祖サミュエル・モーディカイが引き起こした、小学校のスクールバスハイジャック事件である。彼は教団幹部に命じてスクールバスの運転手ウォルター・デミングと11人の子どもを教団敷地内に監禁し、教団以外のものが敷地内に入ってきた場合、人質を殺すと脅して立て籠もりをつづけており、FBIと地元警察はその施設を包囲しつつ、人質の救出のために交渉をつづけているものの、後五十日で世界は終わりを迎えるという終末思想にとりつかれているサミュエル・モーディカイとの交渉は、すでに四十六日経った今もなお、まったく進展していないという状況だった。

 モリー・ケイツはかつて、モーディカイと直接会ってインタビューをしたことのある唯一のジャーナリストだったが、今回の全米が注目している事件とかかわることにめずらしく消極的だった。それは、彼がおよそ話し合いなど通じない、狂信的な危険人物であることを見抜いたゆえの嫌悪感から生じている拒否反応だったが、警察側の交渉手段が万策尽きていること、そしてモーディカイが養子であり、かつて生みの親を探し出そうとしていたという独自の情報を入手したことから、モリーはモーディカイとの交渉の最後の切り札となるかもしれない実母を捜すために動き出すことになるが……。

 物語は、人質として地面に掘られた穴の中で監禁状態にあるウォルター・デミングの視点と、モーディカイの情報をもとめて奔走するモリー・ケイツの視点を交互に行き来するような形で進められていくが、人質たちの極限状態を強調しつつ、それでもなお希望を失わないよう努力しつづける様子や、刻一刻とXデーが近づくなか、自分のやるべきことのために奮闘するモリーたちの姿を描いていくやり方は、前作を読んだときも感じたことだが、事件に対する臨場感を高め、読者を自然と物語の世界に引き込んでいく。とくに、タイムリミットを明確に区切ったうえで、どんどん差し迫っていく緊迫感を演出していくその手法は、まさに一流のエンターテイナーとしての資質とも言うべき見事さであるが、それ以上に特徴的なのは、登場人物が、たんなる役割をはたすだけで終わらない、たしかな存在感を獲得しているという点である。そして、それはモリーを犯罪ライターとして突き動かしている、凶悪犯罪――何が人を犯罪に走らせるのか――に対する頑ななまで追求心、真実を知りたいという欲求とけっして無関係ではない。

「――大きな不幸が起こって、ようやくそれをくぐり抜けたときは、なにもかもなくしている。それでも人間は生きていくわ。だから、すべてを失ったわけではないんだ、と」
「それはなくしたうちに入らないよ」

 作品のなかで、モリーは人質になっているバスの運転手ウォルター・デミングが、じつはベトナム戦争の志願兵であり、そのときの体験がもとで、以後世間とのかかわりをできるだけ避けるような生活をつづけてきたことを、彼の友人のジェイクから聞き出すことになる。そして物語が進むにつれて、読者はとくに、サミュエル・モーディカイとウォルター・デミングの過去の出来事が物語の中核をなしていくことに気がつくはずである。他人にはまったく理解のできない狂った終末思想をまくしたて、その歪んだ真実を他人に押しつけようとするモーディカイと、同じように他人にはとうてい理解しがたいベトナム戦争での体験をかかえながら、そのことを内に秘めたまま誰とも深くまじわることのない生活をつづけてきたウォルター ――不思議なことに、物語上の悪人と善人の区分がはっきりしているにもかかわらず、ふたりのなかにある、たんに悪人と善人といった枠で定義することのできない人間の複雑さを、私たちはたしかに感じとることができる。

 思いがけず彼らの過去を追うことになったモリーにとって、どちらの心情もとうてい理解できるとは言い難いものだろうことは、容易に想像できることであるが、本書の語り口は、まるでモリーのように、よけいな感情を差し挟まない文体をこころがけている。だが、逆にそのことによって、私たち読者はそのなかにさまざまなドラマ性を自然と感じとることができる、いや、そうせずにはいられない要素が、本書の中には数多く提示されているのだ。

 モリー自身も感じたように、この事件はそもそも勝者など誰も存在しないたぐいのものである。たとえ、世界の終末がほんとうに来ようと来まいと、モーディカイの運命は死以外にないし、物語がはじまった時点で、すでに人質となった子どもたちには、一生消えることのない心の傷が刻まれてしまっている。だが、それでもなお人々は生きていく。あの極限状態のなかで、それでもなお豊かな想像力の羽を広げ、さまざまな遊びを思いついた子どもたちのように、そして戸惑いながらもジャクソンビルのお話を語り、そのなかに自身の過去を再構築しようとしたウォルターのように。それは、けっしてスマートでも格好よくもないが、少なくとも自分が何もかも失ったわけではない、と信じるに足るものを、きっとすべての読者に感じさせることができるに違いない。(2005.09.14)

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