【講談社】
『Twelve Y.O.』

福井晴敏著 
第44回江戸川乱歩賞受賞作 



 誰も、何も信じられない世界――今の日本という国を表現するのに、これほどふさわしい言葉はあるまい。敗戦から奇跡的な経済復興を遂げた、と言えば聞こえはいいが、その実体は、戦勝国によって投げ与えられた自由と主権を盲目的に受け入れた日本が、自らの文化や伝統をかえりみることも、また与えられたものの価値すら考えることもなく推し進めていった、軍国主義にとって代わった産業主義の結果でしかなく、倫理もモラルもない企業の金権主義によって育てられた政治家たちは、その場しのぎの政策を続けることですべての責任を次の世代に押しつけて平気な顔をし、経済以外に自国の誇れるものを何ひとつはぐくもうとしなかった結果、バブルの崩壊で託すべき対象をすべて失ってしまった日本は、今や国民ひとりひとりの中で敗戦時と同じような疲労と閉塞観を抱え、自分勝手で想像力が極度に低下した大人たちを育てつづけている。

 いや、そんな私を含めた大人たちを「大人」と呼ぶには、あまりにも幼すぎる、と言わなければならないだろう。軍を持たない平和憲法を掲げながら、自衛隊の存在を黙認し、非核三原則を唱えながら、アメリカの原子力空母を平気で寄港させ、そのことを疑問に思うことすらしない私たち日本人はみんな、まだ幼い子供――自分の手で情報を集め、自分の頭で判断し、結論を下すことのできない子供でしかないのだ。

 本書『Twelve Y.O.』は、私たちにとっては厳しく、まさに耳に痛いメッセージを織り込んだ小説だと言うことができる。だが、それはけっして未来への絶望を描いたものではなく、むしろ、日本が国際社会のなかでまぎれもなくひとつの国として通用するために、踏み出さなくてはならない第一歩を指し示し、なにひとつ確かなもののない今の閉塞した世の中を突破するための希望――国とともに、私たち自身も一人前の日本人として、成熟した大人の仲間入りをすること、そしてそのための苦痛から逃げてはいけない、ということを伝える小説でもあるのだ。

 自衛隊地方連絡部、墨田出張所で「手配師」とあだ名される、自衛官募集員として働く平貫太郎にとって、自衛隊はもはや何の魅力もない、自分の無力感を増長させるだけの場所と成り果ててしまっていた。平のそんな、生きがいをなくした姿の裏には、かつて彼が唯一情熱を注いでいた「海兵旅団」――空洞化する自衛隊とは独立して、秘密裏に組織された「戦える軍隊」の存在と、優秀なヘリパイロットとしての腕を、ある事件によって両方とも奪いとられてしまったという経緯があった。

 そんな彼の前に、ひとりの男が接触してきたことによって、すべての物語が動きはじめる。東馬修一 ――「海兵旅団」時代の平の命の恩人であり、また誰よりも日本の未来を憂え、国防の体裁を整えることで、根無し草となってしまった日本に、一個の独立した国家としての第一歩を進ませることができると信じていた彼が、自ら「トゥエルブ」と名乗り、陸上幕僚監部調査部別室――通称「調別」から盗み出したコンピュータ・ウィルス兵器「アポトーシスU」と、一種の戦闘兵器である「ウルマ」を用いて米国防総省(ペンタゴン)相手にたったひとりでテロ活動を行なっているという事実を、彼を追っていた国防庁情報局(ダイス)の夏生由梨から聞かされることになる。そして、さらに驚くべきことに、沖縄基地からの海兵隊撤退の裏には、東馬の脅威がからんでいた、ということも。

 米国を屈服させたにもかかわらず、なおもテロ活動を止めようとしない東馬こと「トゥエルブ」の真意は何なのか、何人たりとも東馬に触れることができないという、彼の持ち札のひとつ「BB文書」とは何か、テロにはけっして屈しないと宣言していたアメリカが、その責任を日本に追及することもなく、あっさり世界戦略の重要な拠点である沖縄から軍隊を引き上げさせた不自然さの裏に何があるのか、そしてダイスの事実上のトップである古武外事部長がひそかに練り上げたシナリオとは? たった一度、東馬と接触したという、ただそれだけの理由で、国家を転覆させかねない大事件に巻き込まれる形となってしまった平は、しかし自分なりにこの事件を理解しようとし、自分なりの答えを見出そうと、再び動きはじめる。かつて、自分を死から救ってくれた東馬が、この十年のあいだに何を思い、どんな地獄を体験し、そして何が東馬をテロに駆り立てるのか、その答えを知るために。

 本書の著者である福井春敏は、その代表作でもある『亡国のイージス』でもそうだったが、自身を守る力はおろか、何が危険なのかを判断することすらできない今の日本――どうしようもなく閉塞してしまった日本という国を、同じく自分でものを判断することのできない、未成熟な日本人の姿と重ね合わせることで表現するのを得意とする作家のようだ。本書については、「ウルマ」こと東馬理沙の存在がそれにあたる。戦闘兵器として、命令を忠実に貫徹することのみに生きることで、自分自身すら捨ててしまった「ウルマ」――命令であれば、人を殺すことも、自分の命を絶つことさえも厭わない彼女の存在は、そのまま日米安保の庇護を盲目的に信じることしかできない今の日本の姿につながるものがあるだろう。

 いや、「ウルマ」だけではない。「海兵旅団」の解体とともに自分の理想を見失い、人生の意義を見出せないまま、ただ流されるままに生きてきた平貫太郎や、心の安寧を求めて失ったものを、心を歪めてでも取り戻そうとする夏生由梨、ダイスの兵士として絶望しつづけ、「ウルマ」に対して生きる喜びを伝える記憶も術も持たないまま苦悩する辻井護など、そこにはどこか未成熟な――しかしそれゆえに人間らしいとも言える人物を絶妙に配置し、そんな彼らの心の成長を、この日本という国に残された最後の希望として投影することに成功した作品でもあるのだ。

 それゆえに、本書は熱い。現状に甘んじることなく、たとえ茨の道となろうとも、一歩を踏み出すことを決意する彼らの言動は、陳腐であることを通り越して、たしかに熱い脈動をほとばしらせているのである。

 そこから抜け出す最初の一歩を踏み出した今、それが自分一人の問題ではなく、社会全体の風潮としてこの国を停滞の戸口に追いやっている現状を見渡して、たとえ一時の幻想に過ぎなくても、信じようと思うのだ。何も絶望することはない。希望はそれぞれの中にすでに用意されている。それに気づいた時、この国はもう一度進むべき道を見出して、今より少しだけやさしい社会の有りようを示すことができるのだ、と。

 誰も、何も信じられない世界で、それがあるから生きていける希望――かつて、戦勝国の人物に「十二歳の子供」と評された日本が、いつかその幼年期を抜け出すための鍵が、本書の中にはある。(2000.10.07)

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