【角川書店】
『天使の牙』

大沢在昌著 



 常識と非常識、普通と異常を判断する境界線は、けっして万人にとって共通の絶対的なものではなく、むしろ時代や場所、あるいは個々の人間のなかにおいてさえ容易に変化していく相対的な価値基準に拠るところが大きいものである。たとえば、私たちはこの世界では、毎日のように何らかの犯罪が起きており、そのなかで人々は簡単に被害者となり、また加害者にもなりうるということを知っている。だが私たちの大半は、それらの犯罪が、ほかならぬ自身の日常のなかで起きるかもしれないという可能性について、ほとんど意識することはない。あるいは、あえて意識しないようにしているだけなのかもしれないが、その事実をもって当人を準備不足だと責めるのは、あまりに酷というものだろう。この世では、ときにどのような非常識なこと、荒唐無稽な出来事だって起こりえる可能性があるのは事実であるが、いつ巻き込まれるかもわからない、あるいは一生遭遇することもないかもしれない事柄に、常に備えつづけることができるほど、私たちがかかえる日常は軽いものではないのだ。

 そんな相対的な価値基準のなかにおいて、おそらくいついかなる時代においても、ほとんど変化することのない、絶対的な常識でありつづけてきたのが、人の死にかんする出来事である。人はいずれ必ず死ぬし、一度死んだ人間はけっして甦ることはない――本書『天使の牙』という作品は、ミステリーやサスペンス、ハードボイルド、恋愛といった要素をいくつも取り込んだ、ある意味非常に贅沢な作品であるが、その面白さの根底にあるのは、人の死にかんする常識が覆されたときに生じる、人々の反応や言動である。

 物語の大筋にあるのは、「クライン」と呼ばれる非合法組織と警視庁との対決という構図である。警視庁保安二課に所属する河野明日香は、課長の芦田からの特別任務を受け、単独でN県に向かうところだった。その内容は、「クライン」のボスである君国辰郎のもとから逃げ出した愛人、神崎はつみを保護し、警視庁まで無事送り届けるというもの。新型の麻薬であるアフターバーナーをもとに、日本のおもに西側のほうで急速にその勢力をのばしてきた「クライン」に大打撃をあたえる鍵となる可能性を秘めた神崎はつみだったが、彼女と合流することに成功した明日香もろとも、「クライン」の襲撃を受けて殺害されるという結果となる。その事実は、以前から芦田が薄々感づいていたことを裏づけるものだった。つまり、警視庁内部、それもかなり高い地位にある人物のなかに、「クライン」への内通者がいるという事実……。

 本書の冒頭で、間違いなく物語の主要人物として、その頼れる相棒である「仁王」こと古芳和正とともに登場した河野明日香――男勝りの体格と武術をもつ、色気の欠片もない女刑事は、こうしてあっけなく死を迎えるのだが、じつはその後、同じ襲撃で脳に損傷を受けて死亡した神崎はつみの体に、明日香の脳を移植するという、きわめてSF的な方法で文字通り甦ることになる。つまり、体は神崎はつみでありながら、意識は河野明日香であるという人物があらたに登場する形になるのだが、問題なのはそうした脳移植が可能かどうかといったことではなく、その秘密を登場人物のほとんど誰も把握していないという状況にこそある。

 警視庁内の裏切り者をおびきよせる餌として、おとり捜査の任務を受けることになるアスカだが、「クライン」の動きは予想以上の迅速さで、彼女の護衛をするはずのチームを壊滅させてしまう。こうして任務がまともに機能することもなく、内通者の存在ゆえに警視庁からの応援もまったくのぞめないまま、孤独な逃避行をつづけなければならない、という緊迫した展開の連続は、それだけで読者を惹きつけるものがあるが、それ以上に読者を惹きつけてやまないのは、まさにアスカの抱える秘密が、アスカ以外の登場人物にどのような言動をさせ、どんな影響をおよぼすことになるか、という点なのだ。

 たとえば、古芳和正は明日香が死んだものと思い込んでおり、それゆえに彼女の死の原因となった君国への復讐のために神崎はつみと接触するが、彼女の心がじつは明日香であることを読者は知っていても、古芳には知りえない、という状況が生まれることになる。はたして、古芳は彼女にどのような振る舞いをとるのか、そしてアスカは、これまで見たこともなかった古芳の姿に何を思うのか。特別任務の直前にプロポーズをするような仲だったふたりが、脳移植という事実によって、近くにいながらすれ違うという運命に翻弄されるとき、私たち読者はそこに極上の人間ドラマを見出すことになる。

 それは敵役である君国にとっても同様で、最初こそ死んだはずのはつみを取り戻そうとするものの、次第にはつみが君国の追手を予想以上の機知で振り切っていく様子に困惑せずにはいられなくなる。自分の愛人として、自分なくしては何もできないと思いこんでいたはつみに、いったい何があったのか――そうした登場人物たちの論理的な心理描写を駆使しつつ、物語をきたるべき対決の方向へと結びつけてくストーリーテラーとしての巧みさには脱帽ものであるが、本書を読み進めていった読者は、きっとそうした対決もさることながら、神崎はつみの体になってしまった明日香と、彼女は死んだものと思い込んでいる古芳との関係が、どのような結末を迎えることになるか、という点にこそ注目することになる。

 正体を明かしたいという欲求をもちながらも、相手のことを思うがゆえにどうしてもできずにいる明日香、愛する女の死の原因となった、憎むべき女であるにもかかわらず、その言動にどうしても明日香の面影を見出してしまう古芳、そして、その古芳にはつみの心が傾いているという事実ゆえに、古芳に対して並々ならぬ嫉妬心に狂う君国――そう、お互いに憎からず思っていた男女が、やむにやまれぬ理由で正体をいつわって行動しなければならず、それゆえに何度もすれ違ってしまう、というふたりの関係は、そのまま恋愛小説の王道ともいうべき展開であり、それゆえに本書はミステリーでもサスペンスでもなく、むしろ恋愛小説としての要素が強いと言っても過言ではないのだ。

 一度死んだ人間は、けっして生き返ることはない。だが、それが当人の望む形ではないとはいえ実現してしまったとき、そこから間違いなくひとつの人間ドラマが生まれることになる。このような展開の物語はいくつもあるが、そこにミステリーやサスペンス、さらにはハードボイルドとしての要素まで取り入れることに成功した恋愛小説は、おそらく本書だけではないだろうか。(2006.06.25)

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