【新潮社】
『ねじの回転』

ヘンリー・ジェイムズ著/藤沢忠枝訳 



 たとえば、他の人には見えているはずのものが自分にだけは見えない、という体験をしたことがあるだろうか。あるいは、自分の目にはたしかに見えているはずのものが、他の人の目には見えていない、という体験はどうだろうか。あるひとつの光景を同時に目にするとき、私たち人間は常に自分の見ているものとまったく同じものを相手も見ているはずだと考えるものだが、じつは私たちが見ていると思い込んでいるものは、視覚が収集した情報を脳が処理し、再構成したものにすぎず、そこに出来上がってくる風景は、かならずしも現実にそこにあるはずのものと一致するわけではない。もし、どうしても見たくないと思っているものが目に飛び込んできたときに、脳の検閲機能が無自覚にその「見たくないもの」の情報を削除したとすれば、見えているはずのものが見えていない、という現象が起こることになるし、逆に人々の恐怖心が、ただの枯れ木でしかないものを幽霊だと見なしてしまうことにもなる。

 何が現実で何がそうでないのか――そういう意味において、私たちにとって共通の現実などというものは存在しないし、また私たちはけっきょくのところ、世界に対してたったひとりで向き合っていかなければならない、というのが宿命なのかもしれない。だが、それでもなお私たちが他の人たちと協調して生きていくことができるのは、自分と同じものを相手も共有しているはずだ、という認識に拠るところが大きい。とすれば、私たちはじつは、常に狂気と正気の境目ギリギリのところを、危ういところでバランスを保ちながら生きているようなものなのかもしれない。

 今回紹介する本書『ねじの回転』は、ある上流階級の集まりでダグラスという男が披露した、ある女性の家庭教師がつづった手記の内容を書いたものである。そもそもこの手記を紐解くことになったきっかけとして、そのサロンで語られたある怪談――子どもに幽霊が出たという話があり、その怪談のさらに「ねじの回転(ひねり)」を利かせたもの、という位置づけとして本書の手記があるわけだが、この怪談のもっとも重要で、それゆえに恐るべきところは、じつは子どもたちが幽霊を見たということではなく、むしろその手記で語り手となっている家庭教師が、自身がたしかに目撃したはずの幽霊の存在について、誰ひとり――それこそ同じ幽霊を見ているはずの子どもたちとさえ、その体験を共有することができずにいる様子が描かれており、それゆえにその手記に書かれていることすべてが、この上なく脆弱で不安定なものとして、読み手の不安をあおる点にこそある。

 家庭教師になろうとロンドンにやってきた彼女は、とある裕福な紳士があずかっている幼い甥と姪の家庭教師を勤める契約を取り交わした。男としての魅力に溢れるその独身貴族は、彼女の淡い恋心を満たすのに充分な美男子であったが、自分の勤め先となる田舎の邸で彼の甥と姪に出会った彼女は、そのあまりの可愛らしさにすっかり驚嘆してしまう。マイルズとフローラの兄妹は、まるでおとぎの国で生きているような美しさと、学んだことを独自に発展させていくだけの聡明さと、そしていかにも子どもらしい純真さをあわせもっているように彼女には見えた。そしてじっさいに、彼らは驚くほど手のかからない子どもたちでもあった。だがそのいっぽうで、彼女を困惑させるような状況が、この幼いふたりをとりまいているのも事実だった。

 なぜ、マイルズは以前通っていた学校を退学させられたのか。彼らをあずかっているはずの紳士は、なぜふたりの問題について自分にいっさい報告してこないよう家庭教師に約束させたのか。彼女の前に家庭教師をしていたジェルスの死や、執事をつとめていたピーター・クイントの死は本当にただの偶然なのか? 物語はそのうち、死んだはずのジェルス先生やピーター・クイントの亡霊を何度となく目にするようになり、その亡霊たちはふたりの子どもたちにとりいって、何かよこしまな道へと引きずり込もうとしていることを確信するにいたり、彼女はその亡霊との対決を余儀なくされるという展開になっていくのだが、ここで重要なのは、その亡霊をじっさいに見たことがあるのは、その家庭教師だけだという事実である。マイルズとフローラの目にも、亡霊たちの姿は見えているらしく、しばしば彼らは家庭教師をゾッとさせるような、不可解な行動をとることもあるのだが、そもそもこの手記が家庭教師である彼女の主観によって書かれている以上、子どもたちにも本当に亡霊の姿が見えているのかどうか――いや、そもそも亡霊自体が実在するのかどうかさえ、彼女にはたしかめるすべがないのだ。

 自分の見ているもの、自分が今体験していることが、本当に真実なのかどうか――その邸にはグロース夫人をはじめ、何人かの使用人がいるものの、彼女たちの誰ひとりとして亡霊の姿など見ておらず、家庭教師はたったひとり、孤立無援の状態で亡霊たちと立ち向かわなければならなくなるのだが、このあまりに理不尽で孤独な、そして神経をすり減らす戦いは、しかしこの手記を読んでいる私たち読者にも、そのままあてはめることができるものでもある。なぜなら家庭教師同様、読者にもまた亡霊にかんする情報がいっさい与えられておらず、たとえばなぜ亡霊たちが子どもたちを狙うのか、その正体は何なのか、といった情報は、けっきょく最後までわからないままであるからだ。もしかしたら、本当に亡霊がいるのかもしれない。そうではなく、じつはマイルズとフローラが、家庭教師の想像以上に悪賢い子どもで、ただ家庭教師を追い出そうといろいろ策略をめぐらせているのかもしれない。その真実はどこを探しても見つかることはない。家庭教師の行動ひとつとってみても、それが正しいものであるのか、間違ったものであるのか、判断する情報もない。そしてその事実が、よりいっそう読者の不安を駆り立てることになる。

 本書はたしかに家庭教師が体験した幽霊体験であるのかもしれないが、この家庭教師がふたりの子どものために何かしてやればやるほど、子どもたちが逆に家庭教師に対しておびえたような態度を示すようになる様子は、見方を変えるなら――子どもたちの視点からすれば、むしろ家庭教師自身が亡霊と化して見えているのではないか、と思わせるところもある。そしてこの点については、何が正しいのかを知るすべは、私たちにはない。

 私たちが共通のものだと思い込んでいた認識が、じつはひとりひとりまったくのバラバラであること、それゆえに、私たちは基本的にひとりでしかないこと――それこそ、ちょっとねじの一本もひねれば、考え方も評価も、見えてくるものさえもまったく違って見えてしまうという事実は、じつはこの上なく恐ろしいものではないか。本書を読むことになる人たちが、そのなかにどのような形の亡霊を見ることになるのか、それは私にはまったくもってわからないが、ひとつだけあきらかなのは、それがどのようなものであれ、おそらく私が感じとったものとはまた別の姿かたちをしたものである、ということだけである。(2007.01.04)

ホームへ