【文藝春秋】
『調律師』

熊谷達也著 



 言うまでもないことかもしれないが、死とは、この世から消えてなくなること、生者たちの生きる世界との関係性を絶対的に失ってしまうことを意味する。死者はもうこの世に存在しない。だが、その死者と生前に深いかかわりをもっていた人たちは、喪失感という形で死者をこの世にとどめ置こうとする。彼らにとって、たとえ肉体的には消滅していても、死者は死んでいない、ということになる。葬式とは、言ってみれば死んでしまった者を正式に「死者」としてこの世から送り出すための、他ならぬ生者たちのための儀式だ。そういった形で生と死とのあいだに区切りをつけなければ、その人にとって死者はいつまで経っても死者になりきることができなくなる。

 人は死者を埋葬する唯一の動物だと聞いたことがある。死者を思うこと、死んでしまった者を、あたかも生きているかのように想像することは、もっとも人間らしい振る舞いのひとつであり、だからこそそこからさまざまな人間ドラマが生まれてくることにもなるのだが、今回紹介する本書『調律師』は、そうしたテーマ性を少なからず含んでいる作品であり、またその展開についても興味深いものを見ることができる。

 そのタイトルからもわかるように、本書は調律師――ピアノという複雑で繊細な楽器の、音程などの歪みを調整する特別な技術をもつ人を主人公にした物語である。ただし、この鳴瀬玲司という名の調律師には、他の人たちとは多少毛色の異なる要素があり、それが他ならぬ彼自身の個性にもなっている。ひとつは、彼がかつてピアニストだったこと、それも、国際コンクールで優勝するほどの、特異な才能をもったピアニストだったという過去を持つ点。そしてもうひとつが、彼が「共感覚」の持ち主であるという点である。

 共感覚というのは、人間の五感のどれかに対する刺激があったとき、通常の感覚と同時に、普通なら感じられないはずの別の感覚も反応する現象なのだが、比較的多いのは、文字に色がついて見えるとか、音と一緒に色が見える、というものだ。

 かつて玲司には、この「色聴」と呼ばれる共感覚があった。ピアニストの家庭に生まれ、ピアノを弾くことをあたり前のように受け入れて育った彼が、非凡なピアニストとして大成したことと、彼の共感覚がどれほどの関連性をもっているのかははっきりしていないが、今の調律師としての彼には、「色聴」の共感覚は失われており、代わりに別の共感覚――音に匂いが混じってくるという、共感覚のなかでも珍しい部類の感覚を有している。

 本書を読み進めていくとわかることだが、この「嗅聴」とも言うべき共感覚は、彼の調律師としての技能を高めるのに大いに役立っているところがある。というのも、聴覚だけでは読み取ることのできない微妙な違和感を、玲司は匂いによって察知することができるからだ。つまり、ピアノの音の不具合が、そのまま臭いの快不快に直結しており、しかもこの匂いは、ピアノの調律によって随時変化していくのである。これはたとえば「色聴」における、ひとつの音階にひとつの色が対応するというたぐいのものとは異なっており、それゆえに玲司の担当医であり、また有望な脳神経外科医でもある澤口も注目しているのだが、玲司自身にとってもっとも重要なのは、その共感覚が死んだ妻のもっていたものだという点である。

 そう、玲司の妻絵梨子は調律師であり、彼がピアニストだったころに知り合い、それが縁で結婚したという過去が、本書の根底にはある。そしてふたりはかつて、ある重大な事故に巻き込まれ、結果として玲司は妻を失うことになってしまった。同時に彼のピアニストとしての将来も失われ、残っているのは妻のもっていたとされる「嗅聴」の感覚のみ、という状況が、本書における鳴瀬玲司の置かれた立場だと言える。

「鳴瀬、おまえ。自分の共感覚が奥さんの持っていたものと同じであればいいと、そう願っているんじゃないのか? もっと言えば、おまえの奥さんは、おまえのなかに自分の共感覚を残して死んでいったと、そう思いたいんじゃないのか?」

 玲司にとっての調律師という技能は、たんにピアニストとしての道を絶たれた男の収入源というだけでなく、死んだ妻とともに生きること、絵梨子のことを忘れずに生きることを意味する。だが同時に、あまりにも彼女のことにとらわれすぎていて、そこから前に進むこと――彼自身の幸せを考えることができずにいるという問題もかかえている。はたして彼は、妻の死をどのような形で受け入れていくことになるのか、そしてそのとき、彼のもつ「嗅聴」の共感覚がどうなるのか、という命題が本書にはあるのだが、連作短編集という形で、さまざまな場所へピアノの調律に赴きながら、自身に与えられた共感覚の意義を見据えていくという流れは、じつはある「出来事」を機に大きな変転を迎えることになる。

 その変転が何を指しているのか、そしてそれが物語にどのような影響をおよぼしているのかは、じっさいに本書を読んでたしかめてもらいたいところであるが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、その「出来事」は、それまで自身の内側に向けられていた玲司の視点を、外側へと向けさせるきっかけとなったということだ。それは言い換えるなら、彼にとっての調律師とは何なのか、という問いかけでもある。

 くり返しになるが、玲司はもともとピアニストであって、調律師ではなかった。調律師だったのはあくまで絵梨子であり、しかも彼は、彼女の共感覚のことを知っていた。しかし絵梨子は死に、その共感覚だけが彼に引き継がれた――少なくとも玲司はそう思い込んでいるところがある。これはあくまで私の個人的な推測でしかないのだが、玲司は自分のなかに「嗅聴」の共感覚が宿ってしまったことに、何らかの罪悪感をいだいていたのではないか。そしてそれゆえに、今の調律師としての自分の技能も、どこか借り物であるかのような感覚があったのでは、と。そこには当然のことながら、自分だけが生き残ってしまったという罪悪感も含まれている。

 だが、そうした彼個人の事情とは別に、彼の調律師としての技能を必要とする人たちがいる。そしてそこには、たんにピアノの調律というだけでなく、ピアノを弾く人の心の調律というニュアンスもあった。ある意味で本書のなかで起こったある「出来事」は、非常に乱暴な方法で、玲司自身の乱れた心を「調律」することになった。正直なところ、その「出来事」が物語として必要な要素だったのかどうかは判断がつかない。だが、少なくとも小説の書き手として――そしてそれ以上にひとりの人間として、そこに触れずにはいられない、そこを起点にもう一度歩き始めるしかない、という思いは、そのまま玲司の境遇にも重なるものがある。

 死者の埋葬と同じく、想像力もまた、人間を人間たらしめる、人間だけがもちえるものだ。もうこの世にいない死者を想像すること――それが生者にもたらすもの、ささやかながら大切なものを、ぜひたしかめてもらいたい。(2014.05.14)

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