【講談社】
『妻が椎茸だったころ』

中島京子著 

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「この世には不思議なことなど何もないのだよ」と語ったのは、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』に登場する京極堂であるが、それは彼のような明晰な頭脳の持ち主であればそうであろう、というだけであって、誰もが容易に物事の真相にたどり着けるというわけではない。それどころか、ときには自分自身を無自覚に騙し、目の前にあるはずの真実すら歪曲してとらえてしまうことがあるのが、私たち人間という生き物だったりする。

 これはこうであるはずだ、という思い込みが、しばしばその人を真実から遠ざけてしまうのは、たとえばミステリーの世界ではよくあることだが、より大きな視点でこの現象をとらえたときに、それは人にとっての欠点というよりは、むしろ知恵の一種となっているのではないか、と思うことがある。というのも、物事の真相というものは、多分に残酷で不条理なものであったりする事実があるからだ。極端な話、事件の犯人からすれば、事件の真相などは永遠に隠しておきたい悪夢のようなものであるはずである。つまり、世のなかにある不思議な出来事というものは、たしかに真実ではないのかもしれないが、大抵がろくでもない性質のものである真実をむき出しにすることだけが「正しい」とはかぎらないのだ。

 今回紹介する本書『妻が椎茸だったころ』は、表題作を含む五つの短編を収めた作品集である。そして、いずれの作品においても共通しているのは、ある人が別のある人に対して抱いたイメージと、じっさいのその人のもつ性質とのギャップをどう表現していくか、という点だと言うことができる。たとえば表題作である『妻が椎茸だったころ』では、定年退職になった二日後に、長年連れ添ってきた妻を急に亡くしてしまった男性が、成り行きで妻が予約していた料理教室に行くことになるという話だが、その過程で男性は、生前は知らなかった妻の側面に触れる機会を得て、そのギャップに少なからず困惑することになる。

 自分の妻が、過去に椎茸だったことがあったかについて、泰平は思いをめぐらすことをしなかった。そういった類の想像力を、持ち合わせてはいなかったのだ。自分が犬だったり猫だったり、前世で弘法大師だったりローマの大司教だったりするというような。

(『妻が椎茸だったころ』より)

 料理教室の先生から電話があり、なぜか自分がその教室に行くことになってしまった泰平が、当日もってくるようにと言われた椎茸を煮付けようとする過程で、ふと妻が残していた古いノートを見つける――ここでは、それまで料理をはじめとする家事全般を妻にまかせっきりだった夫、というスタンスが前提としてあり、妻の死によってそのバランスが崩れ、自然と夫のほうが妻の領域に踏み込むことによって、それまで見えていなかった妻の別の側面が見えてくる、という構図がある。

 ある人に対する評価や、好悪の感情といったものは、人によってまちまちであることが普通である。逆に言えば、自分が自分のことをどんなふうに思っていても、他人が同じように思っているわけではなく、自分と他人のあいだにはおのずからギャップが生じるということでもある。だからこそ人は、他人とのコミュニケーションによってその差異をできるだけ埋めようとするのだが、『リズ・イェセンスカのゆるされざる新鮮な出会い』のように、言語圏の違いによって相手の本質を取り違えてしまうこともあれば、『ラフレシアナ』のように、語り手のほうがむしろ特殊な思考をしているがゆえに、いっけんすると相手の言動を異常に感じてしまうというケースもあり、そのあたりの溝を埋めるのはなかなか容易ではないのが実情である。

 上記の二作品については、そうしたギャップが物語のオチとして機能しているところがあり、むしろ気がつかなければよかったというホラーの要素をにじませるが、表題作以降の作品については、よく理解していたはずの人の意外な一面に驚きつつも、登場人物たちはそのギャップを埋めていこうとする傾向にある。もっとも、表題作の妻にしろ、『ハクビシンを飼う』の叔母にしろ、すでに亡くなっていて本人と接触することは叶わない。つまり少なくとも、今以上のギャップが生じることはない、ということでもある。そのことを、本書は好意的にとらえようとしている向きがある。

 自分と相手とのあいだには常に何らかの差異があり、じつはその差異はどうあっても完全に取り除くことはできない、というのがまぎれもない現実だ。相手のことをどれだけ愛していても、その相手を完全に理解するのは無理な相談だし、むしろ乱暴なことでもある。それゆえに、石マニアである男に惹かれてしまう『蔵篠猿宿パラサイト』などは、どうしてもその後の展開に不穏なものを感じずにはいられないのだが、相手が死人であれば、そうした不穏に悩む必要もなくなる。そんなふうに考えると、じつは表題作以降の、いっけんするとあたたかな人間ドラマを思わせる展開も、著者独自の皮肉なのではないか、と受け取れてしまうのだ。

 そもそも、自分が「椎茸」だったころを想像することを、いったいどんな人たちが想定することができただろうか。もっとも表題作に登場する料理教室の先生によれば、料理をよくする人には理解できる感覚だと言うが、それが本当に妻の感覚と一致しているかどうかをたしかめるすべは、もうない。であれば、他ならぬ泰平がそうだと信じたものが、そのまま彼の「真実」となるということであり、またそれでかまわない、というスタンスが本書のなかにはたしかにある。ちょっと奇妙で、しかしどこか人間関係の真実を鋭く突いている本書に、はたしてあなたはどのような反応を示すことになるのだろうか。(2014.10.06)

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