【評論社】
『チューリップタッチ』

アン・ファイン著/灰島かり訳 

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 誰かと友だちになるのに、その人の名前を知り合うことができれば充分だと豪語する人を私は知っている。百人の敵をつくることになっても、たったひとりの本当の友だちをつくるほうがマシだと豪語する人も私は知っている。ごく客観的な見解を述べるなら、前者の「友だち」の範囲は非常に広くて浅く、それゆえに誰もが簡単にその人との関係をもつことができるのに対して、後者のそれは非常に狭くはあるが、いったん築かれた友情はちょっとのことでは壊れない、深くて頑強なものとなる。そして、このふたりが唱える「友だち」の解釈に、おそらく優劣はない。そこには大きな差はあるものの、どちらもまぎれもないその人にとっての「友だち」観である。

 この書評をお読みの方の「友だち」の解釈は、はたしてどちら寄りだろうか。だが、いずれにしてもひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、それは、こちらがいくら友だちになろうと手を差しのばしたとしても、相手がその手を受け取らなければ、そこに友情が成立することはない、ということである。そして、これがおそらくもっとも重要な点なのだが、友人関係というのは、基本的にお互いが平等な位置に立ってはじめて成立するものである。自分が誰を友達にするかを選ぶ権利があるように、相手にも同じ権利があることを認めること――それを認めることができるなら、おそらくお互いの「友だち」に対する解釈が180度違っていたとしても、ふたりは友だちどうしになれるはずなのだ。

 チューリップは、小さな飢えた目で、するどくあたしを見ている。あたしが裏切らなかったか、まだ彼女のものか、読みとってやるとでも言うように。

 本書『チューリップタッチ』という作品について、何かを語るのは非常に難しく、また微妙な問題をはらんでいる。なぜなら、本書の冒頭で語り手であるナタリー自身が語っているように、この物語は何もかもがすっかり終わっているわけではなく、むしろその終わっていない部分について、読者自身に回答をゆだねてしまっているところがあるからである。

 ホテルの支配人である父の都合で、パレス・ホテルという名の古いホテルに家族ぐるみで引っ越すことになったナタリーは、引っ越しの最初の日にチューリップと出会う。彼女にとって、麦畑の光の洪水のなかで、子猫をかかえて立っていたチューリップは、引っ越してきた土地ではじめて出会った同世代の女の子であり、同じ学校に通うチューリップとまず友だちになろうとするのは、ナタリーにとってはごくあたりまえのことだった。だが、チューリップはあまり学校に顔を見せることはなく、また顔を見せたとしても、クラスの誰からも嫌われていた。そう、チューリップはいつもとんでもないウソばかりついては、学校の生徒を傷つけることを楽しんでいる、いわば学校の問題児だったのだ。

 本書のタイトルにもなっている「チューリップタッチ」とは、そんなチューリップが語る、誰も信じようとはしない、しかしそのディテールがあまりに細かくて、チューリップ自身の生き生きとした語りっぷりから、ひょっとしたらと相手に思わせてしまうウソのこと。このウソのもっとも大きな特徴は、語っている本人さえも欺こうとするたぐいのウソだという点である。つまり、少なくともウソを語っているあいだは、チューリップ自身もそのウソを本当のことだと思いこんでいるのだが、それは同時に、チューリップ自身の切ない願望にもつながっている。

 まぎれもないウソであるにもかかわらず、そのウソを本当のことだと信じ込み、それを他人にも認めさせずにはいられないチューリップ――もし、彼女がありのままの現実を受け入れることができるような環境にいたなら、わざわざそんなウソをつく必要はなかったに違いない。だが現実にチューリップの置かれていた環境は、頭のなかで生み出した妄想とも言えるウソを全肯定しなければまともに生きてはいけないほど、ひどいものだった。

 本書はそんなチューリップとナタリーの微妙な関係について書かれた物語であるが、もしこのふたりの関係が本当に「友だち」と呼べるものであったかと言えば、私はNOと答えるしかない。なぜなら、チューリップは常にナタリーを軽蔑し、侮辱することによって彼女を支配しようとしていたからであり、ナタリーは逆に、自分自身の意思を捨て、心のなかを空っぽにしてチューリップの言うことならなんでも聞く奴隷として支配されようとしていたからである。だが、重要なのはそんな表面的なことではない。問題なのは、ひとりがホテルのオーナーの娘であり、ひとりがまともな家すらない家庭のなかで虐待を受けている娘であるという、子どもたちにはどうすることもできない環境の差にこそある。

 チューリップにとって、ナタリーを支配しようとするのは切実な問題だった。自分が何をしようと、あるいは何もしなくても、一方的に虐待を加える父親をもってしまったチューリップには、自分が何をしても、あるいはしなくても絶対に裏切ることのない「友だち」がどうしても必要だった。それは言わば、チューリップがまっすぐでいるための最後の砦だったのだ。だが、ナタリーとって、チューリップに支配されるというのは、たんなるゲームでしかなかった。「チューリップタッチ」とは、チューリップがつくウソのことであるが、同時にナタリーが自分のまぎれもない心につくウソのこと――自分の意思を無視してチューリップを全肯定する「ごっこ」遊びのことでもある。

 いずれにしろ、そこにあるのはまともな人間関係ではなく、そういう意味でふたりの関係がいずれ破綻してしまうのは必然だったと言える。だが、では誰が、あるいは何が悪かったのかと問われれば、私たちは用心深く口を閉ざすしかなくなってしまう。ナタリーを巻きこんで大人をからかったり、ウソをついたり、友だちを傷つけるような遊びばかりをエスカレートさせていったチューリップ? まぎれもない自分自身を守ろうとするために、チューリップとの関係を断ち切ったナタリー? あるいは娘に虐待ばかり加えているチューリップの父親? そんな家庭環境に薄々気づいていながら、根本的な解決のために動こうとしなかったナタリーの父親? 周囲の人たちや、学校の教師たち、あるいはふたりのまわりにいた生徒たちはどうなのか? これらの要素の、どれかひとつでも異なっていたら、もしかしたら事態はもっと好転していたのではないか、と考えずにはいられないナタリーの心の叫びは、読者の心にも容赦なく突き刺さってくるものがある。

 なんてひどいことをしたのだろう。あれは、あたしが自分自身の命を救うためにしたことだ。でも、思い出すと、泣きたくなる。

 本書のなかでチューリップがとってきた行動を、法に照らし合わせて犯罪だと断じるのは簡単だ。だが、物事のあるべき真実から目をそむけ、私たち力ある大人にとって都合のいい領域に子どもたちを引きずり込むことが、問題の根本的な解決につながるわけではないことを、本書は教えてくれる。そう、この物語はけっして容易に完結はしないし、また安易に回答を提供するたぐいのものでもないのだ。大人たちに比べて弱い立場にいる子どもたちの、弱いがゆえに見せる邪悪で暗い心の内が、本書にはたしかに描かれている。(2006.04.15)

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