【角川書店】
『ツ、イ、ラ、ク』

姫野カオルコ著 



 以前、雑誌の記事か何かで、少女向けコミック雑誌の内容が、かなりきわどい性愛を描くものが多くなってきている、という話を聞いたことがある。最近になって多くなってきたのか、それとももともとそういう傾向があったのかは私にはわからないが、同じ会社に勤める、年頃の娘さんをもつ男の上司たちの話のなかにも、今時の少女コミックは娘に見せられるものではない、という意見が出ているほどだから、よほど凄いことになっているのだろうと想像できる。そして、そのとき私がふと思ったのは、たとえば男の子のほうが「週刊少年ジャンプ」といったコミック雑誌を読んで、パロ・スペシャルをかけてみたりかめはめ波を出す練習をしてみたりといった、いかにも子どもっぽい遊びに熱中しているいっぽうで、同じ年頃であるはずの女の子のほうが、ふつうの性愛の感情やセックスはもちろん、アブノーマルな性といった情報をも少女コミックから得ており、女の子たちもそうしたニーズを少女コミックに求めているのであれば、女の子の性にかんする成熟度というものは、男の子のそれとは比べものにならないくらい発達しているのではないか、ということである。

 じっさい、某女性作家の言葉を引用するまでもなく、女の子というものは、自身の内にある性やそれがもたらす欲望について、男の子よりよほど敏感で、それゆえに淫らで生々しい生き物であるということを早くから自覚するものなのだろう。たとえば世の男たちが、女性の豊満な胸や純白のパンティーに対していだくこだわりが、あくまでファンタジーの領域に属しているのとは対照的に、女はそれを現実の、ほかならぬ自身のこととして置き換えることができる、いや置きかえなければならないがゆえに、性についてもより現実的な考えをもつことになる。そしてそんなことを考えたとき、かつて私が中学生だった頃に申し込まれたことのある交換日記というものが、相手の女の子にとって、当時の私が想像する以上に大きな、そして現実的な意味合いをもっていたのだろうと、本書『ツ、イ、ラ、ク』を読んだ今ならある程度理解することができるのである。

 交換ノート。これが中学生サロンでいかなる意味を持つか、若さを失った者はもう忘れてしまっただろうか、あの行為の実感を。交換ノート。「ノート」の部分を「指輪」に換えれば過去の実感を思い出してくれるだろうか。
 交換とは、じつに発音のとおり、交歓である。

 本書に描かれているのは、ある女子中学生と男性教師の恋愛とその結末である。などと書いてしまうと、まるで島本理生の『ナラタージュ』のようなものを思い浮かべてしまう方もいらっしゃるかもしれないが、上述の引用文ひとつをとってみても、本書がたんなる「恋愛小説」というカテゴリーでくくられるような作品でないことがわかるかと思う。本書における森本隼子と河村礼次郎との恋愛は、たしかにこの物語のメインではあるものの、物語自体がこの恋愛の顛末を中心に動いているわけではない。

 たとえば、本書の冒頭で書かれているのは、小学二年生のころの隼子の様子である。しかし、おそらく近畿地方にあると思われる長命市という架空の街で展開していくその物語において、隼子の立ち位置は、まだ現実の恋愛のことなど何も知らない、しかしテレビ番組のなかに登場する男性との逢瀬を空想するほどにはませた想いをいだく、あくまで小学校というサロンのひとつに属する多くの女子のひとりにすぎないものである。早くも少女から女への変貌を、その形から入ろうとしてる椿統子や、中学生に間違えられるほど背が高く、落ち着いた態度を崩さない岩崎京美などが中心となっている、いわゆる派閥の構成員のひとり――本書の視点は、常に隼子に固定されているわけでなく、じつにさまざまな登場人物のあいだを行き来するという形をとっているのだが、こうした一定しない本書の視点と、ひとつの恋愛を語るのに、一見すると余分なものと思われがちな過去の部分をも表現していこうとするその姿勢が何を意味しているかといえば、ひとつは恋愛というものが、少女から女に変貌することと分かちがたく結びついたものであることを証明するためのものであり、もうひとつは、隼子の身に起きた恋愛感情が、けっして彼女だけの特別なものであるというわけではなく、女の子であれば誰でも起こりえることなのだということを証明するためのものでもある。

 この物語に登場する子どもたち、とくに女の子たちは、けっして私たち大人があたり前のものとして認識している、いわゆる「女の子らしい」女の子というわけではない。それぞれの派閥のなかでの微妙な力関係に苦慮しながらも、あくまでサロンとしての付き合いを続けるだけの処世術を身につけ、にもかかわらず、自身のうちからにじみ出てくる女としての性を意識せずにはいられず、しかしそれをストレートに表現することを注意深く押し隠し、たとえばアイアイガサや、アンクレット、裏時間割表、そして交換ノートといったアイテムに代替しようとする、まさに「生き物」として描かれている。それゆえに、彼女たちの生活はそれだけで生々しいものとして読者の目に飛び込んでくることになる。そうしたある種の生々しさに、あるいは拒否反応をしめす読者もいるかもしれないが、しかし、それでもなお本書が読者を惹きつけるものがあるのは、その内容が間違いなく女の子という生き物の事情を、この上なくリアルに描きあげているからに他ならない。

 そう、恋愛小説でしばしば起こる、恋する男女の記号化――まさに「恋する男女」という記号が、当人のアイデンティティを凌駕してしまうという、恋愛小説にありがちな現象を、著者は恋愛感情と女の子特有の性愛とが結びつく過程を丁寧に描くことで、払拭しようとしていると言うことができる。そしてそれは、異性に対する好きとか嫌いとかいった感情とは、別のものとしてとらえるものでもある。

 河村ではない。ハレー彗星が見たいのである。自由の女神が見たいのである。――(中略)――自分の知らない部屋がそこにあって、ふだんは鍵がかかっていて、あるときそのノブに鍵がささったままになっていたら鍵をまわしてみたい。部屋の中を見たい。どんなものなのか見てみたいのだ。

 中学生になった隼子は、桐野という先輩の恋人がいるにもかかわらず、教師である河村との性愛に溺れていくことになる。彼女にとって、桐野は大好きなはずなのに、なぜかセックスする対象としては映ってはいない。それは、私たち男にとっては矛盾することのように思えるが、それは恋愛とセックスをひとつのものとして見ているがゆえの幻想でしかない。誰かを好きになるということと、セックスをするということ――このふたつの事柄は、女にとって最初からひとつのものとして結びついているわけではない。それらふたつのものが、物語の進行によってどのようにして交わり、ひとつのものとして納得するものとなっていくか、その長い道のりが、本書のなかに書かれているのだ。それは言ってみれば、恋愛感情というものの成熟を描いた物語だと言うことができるだろう。

 およそどんな女の子も必ずもっている、自身の性に対する好奇心――男の子が、あくまでファンタジーとして愛でるものを、文字どおり皮膚感覚で認識していく女の子たちの、赤裸々な息遣いが、本書からはたしかに聞こえてくる。(2006.11.10)

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