【中央公論新社】
『TUGUMI(つぐみ)』

吉本ばなな著 
第二回山本周五郎賞受賞作 



 誰にでも、大切にしたい思い出のひとつやふたつはあるものだ。毎日のように目にしてきた風景、気がつくと、あたりまえのように自分のそばにいた両親や兄弟姉妹、近所の遊び仲間が何気なく語ったひと言――そのときは何とも思わなかったり、あるいはわずらわしいとさえ思っていた事柄も、そこから遠く隔たってしまうと、なぜか懐かしさをともなって記憶に浮かんでくる。そう、ありふれた言葉になってしまうが、本当に大切なものは、なくしてみてはじめてそうだと気がつくものなのだ。そして、二度と戻らないものだからこそ、その人の中で思い出は美しい結晶となって輝き出すことになる。

 別におおげさなことを言うつもりはない。私について言うなら、両親はふたりと健在で、大切な親友は今も元気に働いているし、帰るべき故郷は昔と変わらず存在しつづけている。だが、それでもやはり、帰省するたびに少しずつ、何かが変わっていく。それはけっして止めることができない時間の流れであり、私はそのことに気づかないわけにはいかない。そんなとき、私はあらゆるものが、いずれは思い出となり、そしてその思い出も、私の死とともに永遠に失われていくことをあらためて思い知ることになる。

 つぐみは、どうなのだろう。彼女の中で、何かが「思い出」となるようなことは、あるのだろうか。あるいは、すべてが思い出となることを知っていて、それでもなお幸せでいられるのだろうか。

「そう、わけのわかんない奴。いつもまわりにどこかなじめないし、自分でも何だかわかんない自分をとめられず、どこへ行きつくのかもわかんない、それでもきっと正しいっていうのがいいな」

 本書『TUGUMI(つぐみ)』は、今は東京で暮らしている白河まりあという女性が語る、少女時代の最後の帰省となった、ある夏の思い出の物語である。そして、その思い出のなかで、ひときわ大きな光を放っているのが、彼女のいとこにあたる、つぐみの存在だ。

 海辺の町で旅館を営む山本家のひとり娘であるつぐみは、生まれたときからひどく病弱で、何かというと熱を出して寝こんだり、体の具合を悪くして入院したりする生活をつづけていた。病弱な少女――というと、おしとやかな薄幸の美少女、というイメージを持ちがちであるが、つぐみに関するかぎり、当たっているのは美少女というところだけで、その中身は破天荒なガキ大将そのもの、他人をだましたり、意地悪したりすることにかけて天才的な才能と根性を発揮するという、きわめつけのひねくれ者、性格ブスなのである。

 気まぐれでずる賢く、口汚い言葉で人をののしったり、狂暴になってメチャクチャなことを平気でしたりするかたわら、人前では完璧に猫をかぶり、おしとやかでやさしい少女を演じきってしまうつぐみの性格は、周囲の人たちにとってははなはだ迷惑で、体が弱いだけにやっかいな代物ではあったが、それでも彼女は、多くの人の心を惹きつけずにはいられない。語り手のまりあはもちろんのこと、つぐみの粗暴なふるまいをひたすら受け入れるうちに「天使様の境地に入ってしまうほどやさしくなってしまった」政子おばさんや陽子、また、のちにつぐみの恋人となる武内恭一といった人々は、つぐみの壊れた体の奥底で永久機関のように強い光を放ちつづける、その体にはあまりにも不釣合いな魂があることを知っているからだ。

 つぐみという少女がいったいどんな人間なのか、言葉で説明するのはひどく難しい。こうして彼女のことを紹介しても、ただのハチャメチャな人物という印象しか抱かせられないのではないか、と思うとどうにも口惜しい限りなのだが、そんなつぐみの魅力を伝えるエピソードを、ひとつの物語にすることに成功した吉本ばななという作家の筆力には、驚くべきものを感じる。白河まりあという人物を語り手にすることで、けっして難しい言葉で説明しようとはせず、自分が感じたつぐみの姿を自分が感じたままに描いてみせることで、逆にその人物の魅力を引き立たせてしまうというやり方が、本書ではハマりすぎているくらいに見事にハマっているのだ。もちろん、「夜中の自動販売機のたてる音は、真暗な浜中をびくりとさせたようだった」「アイスはいつも何となくはかない味をしていた」といった、ある種詩的な比喩表現も、著者の作品の大きな魅力であることに間違いはないのだが、それ以上に、まりあの言葉がつぐみの、いや人間そのものの生を強く意識させる何かを持っていると言わなければならない。

 私たちはふだん、あたり前のように生きている。あまりにあたり前すぎて、今この瞬間を生きているという奇跡にまったく気づかない。だが、小さい頃に医者から短命宣言を受け、病気になったり健康になったりを繰り返すことで、自分の生や死と否応なく向き合って育たなければならなかったつぐみは、本当に自分にとって大切なもののためだけに生きている。それは、周囲の人たちにとってはあまりにも自分勝手な生き方のように見えるが、だからこそ、つまらない見栄や打算、世間体といったものから完全に自由であるとも言える。そして、ちょっとした行動や感情の起伏がそのままストレートに体の調子に反映されてしまうつぐみの存在は、それだけで彼女自身の「生」を強く意識させてしまうのだ。

 つぐみのわがままはあまりにストレートで、彼女の命そのものなのだ。だから、まりあも陽子も恭一も、そのわがままぶりがかえって気持ち良いと感じてしまう。それは間違いなくつぐみという少女の、何物にも変えられない大きな魅力である。

 世界は21世紀を迎え、インターネットの発達は、人々を今まで以上に仮想の出会いや仮想の対話へと没入させていくことになるだろう。そんな曖昧な世界では、つぐみのような生き方をする人たちの魅力はけっして伝わらない気がする。だが、どれだけコミュニケーションの形が変わっても、周囲の人たちがいろいろな経験を通じて刻々と変わっていっても、つぐみは今日もまた、「今日」という瞬間だけを見つめて生きていくのだろう。そして、そこにはどこか、私たちをホッとさせるようなものがある。(2001.01.25)

ホームへ