【思潮社】
『釣り上げては』

アーサー・ビナード著 
第6回中原中也賞受賞作 



 食器棚や押し入れに
 しまっておくものじゃない
 記憶は ひんやりした流れの中に立って
 糸を静かに投げ入れ 釣り上げては
 流れの中へまた 放すがいい。

(『釣り上げては』より)

 本書『釣り上げては』は、ミシガン州出身のアメリカ人である著者が日本語で書き綴った詩32編を収めた詩集であるが、もしそうした情報がないままにこれらの詩と向き合ったとしたら、おそらく詩人は日本人だと何の疑いもなく信じてしまっていたに違いない、という妙な確信がある。それは、ただたんに著者が日本語に堪能だということだけでなく、著者が日本語というツールを、自身の過去を文字どおり「釣り上げる」ために駆使しているという感触を、本書の詩から受け取ることができることに起因する。

 この「釣り上げる」という感触は、著者の詩を読み解くのに重要なキーワードのひとつだ。「思い出す」のではなく、「釣り上げる」――たとえば、日本人である私などにはあまり意識されないことかもしれないが、昔の記憶を掘り起こそうというときに、自身が幼いころから慣れ親しんできた言語の影響というのは、思いのほか大きいものであるし、そう考えるのはけっして不自然でもない。英語圏出身の著者にしてみれば、当然彼の過去も英語と深く結びついていると考えるのが普通であるが、著者はそれを、日本語によってやってのけているのだ。そして、思い出を日本語で「釣り上げる」その姿勢があまりにも自然であるがゆえに、読者は何よりその事実に戸惑いを覚えることにもなる。

 だが、私もふくめた読者が感じてしまうそうした戸惑いは、私たちが日本人であり、自分たちが誰よりも日本語に慣れ親しんでいるというある種の傲慢さから来るものだと言わなければならない。そして、日本語が日本人の心情や日本の風景にばかり適応するものとはかぎらない、という点についても同様だ。何より、著者の詩がそのことを証明している。その題材となっているものは、たしかに著者が日本で体験したことが大半であるのだが、そうとわかっていながら、そこに展開される風景は、じつは日本という要素だけに限定されるようなものでなく、著者の出身地であったとしても、さほど違和感なく受け入れることができるものでもある。そういう意味で、著者が使う日本語は、詩という形式を通じて国の違い、言語の違いというものを軽々と跳び越えてみせている。

 日本人とアメリカ人、国の違いはあるが、じつのところその底辺にあるもの、その心のありようという意味では、さほど違いがあるわけではない。本書の詩のなかには日本人の子どもも出てくれば、アメリカ人の子どもも出てくるが、どちらも同じ「子ども」だという印象をまず受ける。それは、あたり前といえばあまりにもあたり前であるのだが、あたり前すぎて見えなくなってしまっているものでもある。

 興味のない人にとっては迷惑このうえない「エホバの証人」の訪問が、著者にとって日常の日本語を学ぶ機会となったり、銭湯で張り合うように鼻歌を歌ったり、機嫌が悪いときになぜか思いっきり大根をすりおろしたりと、日常のなかにあるユーモアをとらえるような詩が多く、おもわずふきだしそうになることもあるが、何より著者の綴る日本語の文章が、ときに私たちが想像もしないようなイメージとつながっていくのが面白い。たとえば、排水溝に詰まった髪の毛が、いつのまにかメロンと結びついたりして、なるほど、本来の日本語の使い方に縛られない自由さという意味で、本書はたしかに詩の要素を有しているのだが、何より秀逸なのは、自身の過去の思い出、とくに事故死した父親の思い出とつながっていく部分だ。

 著者が小さい頃に、飛行機事故という形で死んでしまった父親のことは、著者の詩のなかでもとくに頻出するテーマのひとつとなっているが、著者にとって不幸な事故だった父親との別れは、しかしその詩のなかでとりあげられるさいに、悲壮さといったものと結びつくことはない。いかにもお涙頂戴といった感じではなく、著者が営む日常のなかに、不意打ちのように飛び込んでくる感じで語られる。たとえば、テレビ収録のさいに局内でメイクをされ、鏡に映った厚く化粧をされた自分の顔に、死に化粧をされた父親の姿がダブる、というふうに。

 これは、あくまで私の想像に過ぎないが、著者は父親の死について、日本語の詩という形をとおしてはじめて直視することができたのではないだろうか。英語をもちいて書けば、あまりに生々しいものとなりかねないその事実を、けっして直訳はできないものの、同じような意味に言い換えることくらいはできるようになった日本語というフィルターをとおすことで、すべてとは言わないまでもそれなりに受け入れられるようになったのではないか、と。そんなふうに考えると、言葉というものの不思議さ、その奥深さというものについて、あらためて思いをめぐらせずにはいられなくなる。

 私たちにとっての言葉とは、何なのだろう。コミュニケーションの道具、日常生活に必要なもの、あるいは自分が自分であるためのもの、人間が人間であるためのもの――それはいずれも正解であり、同時にそのいずれでもないもの、という掴みがたい印象がある。とくに、本書のような詩集を読んでしまうと、そうした枠にはめられない言葉の可能性に新鮮な驚きを覚える。著者が日本語という釣り糸で「釣り上げる」ものを、ぜひ楽しんでもらいたい。(2008.04.07)

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