【角川書店】
『真理男』

鈴木剛介著 

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 たとえば、私が本の書評を書くさいに、書くべき書評の内容が完全に頭のなかでまとまってから書く、といったことはあまりない。もちろん、本を読んで自分が何を感じたのか、どんなところが印象深かったのか、あるいはこの本のテーマは何なのか、といったことを考えはするが、それらがきちんとした言葉として表面化することは少なく、たいていは頭のなかでごちゃごちゃした想念のまま漂っているばかり、というのが正直なところである。
 そんなとき、私がやってみることのひとつとして、「とにかく書きはじめてみる」というのがある。何をどう書くかなんて決まってはいないけど、とにかく思ったことを書き連ねてみるのだ。書いてみて、なんか違うと思って削除して、また書いてみるということを繰り返していくうちに、ふとできあがった文章のなかに、「ああ、俺はこんなふうに感じていたのか」とはじめて気がつくような瞬間が訪れることがある。

 文章を書くときに、まず書きたいことがあって、それを書きはじめる――それが本来的な因果関係であるが、こと言葉というものにかんしては、むしろ逆なのではないか、と思うことがある。心のなかにある思いや考えというものは、言葉に起こしてみることで、はじめてそれが自分の「思い」や「考え」として確定されるのだ。こうした言葉の力、哲学的に言えば、言語記号の効果については、それこそソシュールを始祖とする言語学者や哲学者が看破していたことではあるが、これは言い換えるなら、私たちの語る言葉のほとんどが、じつは過去に他の誰かが語った言葉の借り物にすぎない、ということである。なぜなら、誰にでもわかりやすく、耳障りのいい表現というのは、過去に大勢の人たちによって使われることで洗練されてきた結果であり、そうした慣用的表現をもちいることで、より効率的なコミュニケーションが可能となるからだ。

 今回紹介する本書『真理男』は、究極の真理に到達した男の物語である。その真理を使えば、人間が考えうるあらゆる問題は解決し、世界は完全な秩序を取り戻す。だが同時に、まさにその真理ゆえに苦悩し、生きるために奮闘しなければならなくなった男の物語でもある。

 それは真理だった。紛れようのない真理だった。神ではない。ただ、あるがままの真理だった。真理としか言いようがなかった。だが勇介は、その真理を言い表す言葉を持たなかった。

 真理に到達した男――澤村勇介は、小さいころからどんなことにでも徹底的に思いつめ、考え抜く性格の持ち主として本書に登場する。高校卒業後に沢木耕太郎の著書に影響され、世界各国を放浪するうちにアメリカの軍隊にリクルートされてイラクの派兵にくわわり、その戦場で敵の銃弾を受けたときに、唐突に真理を得たという確信をもつことになる。それ以来、何かを考え抜くという彼の性格は、知りえた真理をどうやって他の人たちに伝えるべきなのかという点に向けられるのだが、本書のキモとなっているのは、仮に「究極の真理」というものが実在するとして、はたしてそれを人間の理解できるロジックに落とし込むことが可能なのか、という点にある。

 私がこれまでの書評において何度も繰り返してきたことであるが、人はわけのわからないものに名前をつけ、自分たちの秩序に取り入れることで恐怖を克服してきた。名前とは言葉であり、名づけることでわけのわからないものは「わけのわかるもの」と化す。人類の発展の歴史は、言葉による世界の秩序付けの歴史でもある。たとえば、フロイトの提唱した「無意識」についても、最初からそうしたものが存在していたわけではない。フロイトが「無意識」という言葉でそれを定義づけたからこそ、私たちは無意識の存在を認識することができるようになったのである。

 人間にとって、言葉で定義できないものは、存在しないし目に見ることもできない。そして新しいものというのは、常にそうした目に見えない領域――言葉という秩序でかためられていない、混沌の領域からやってくるものだ。仮に「究極の真理」というものを、私たち人間が認識できない混沌の、もっとも遠いところにあるものと仮定したとして、そこに到達するためには、自分たちのテリトリーである秩序の側から、少しずつ混沌の領域へと地盤を固めていくようにして進んでいくしかない。それは高い塀を乗り越えるために、土を盛って坂道を築くような作業であるが、本書で勇介が思いがけず成し遂げたのは、その壁をまさにひょいと飛び越えてしまうような行為に等しい。しかも彼自身には、その動力が何なのかまったくわかっていない。

 本書を読んでいてわかってくるのは、人間の理解の範囲外にあるもの、つまり人間の言葉で表現できないものは、幽霊やUFOと同じくらい胡散臭いものにしか見えない、ということである。そしてそれは、言葉で思考を磨き上げている学者であればあるほど、その秩序に対する信奉が強いということでもある。本書のなかで、勇介は偉い学者たちに自分の見つけた真理を理解してもらおうと奮闘するが、かならずといっていいほど相手にされず、あるいは話をまともに聞いてもらえない。勇介が学者たちの秩序に沿った言葉をもちいていないのだから当然といえば当然なのだが、同じように勇介自身も、とある新興宗教の信者である女の子の話す内容が理解できない。その宗教を理解するためのロジックをもたない者にとって、新興宗教の言葉がただのノイズにすぎないのと同じなのだ。

 一足飛びに「真理」に到達してしまった勇介と、他の人たちとの距離は、私たちと「真理」との距離と同じくらいかけ離れている。その距離を縮めるのは、私たちがその「真理」に近づくのと同じくらいの困難があるだろうと想像するのは難しくない。本書のなかで勇介が味わう苦悩は、たんにベクトルの方向が異なっているだけで、私たちが真理に到達するのに味わわなければならない苦悩でもある。だが問題なのは、私たちはそんな「真理」など欲していないという点だ。「わけのわからないもの」でしかない真理に、私たちは意味や価値を見いだすことはできない。それゆえに、勇介の苦悩はときに滑稽に映る。だが、その滑稽さは、そのまま私たちに跳ね返ってくる滑稽さでもあるのだ。そこに気づくかどうかで、本書の価値は決まってくる。

 私たちは言葉を使ってコミュニケーションをはかっているし、言葉を使って思考している。もし言葉がなければ、私たちは他者と情報を共有することができないし、物事を考えることもできなくなる。そんなふうに発達してきたのが人類であるとするなら、本書の勇介が到達した「真理」が、まさに「世界の終わり」であったとしても不思議ではない。はたしてあなたは、その「真理」の意味するところをどこまで自分の言葉で理解することができるだろうか。(2013.08.10)

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