【早川書房】
『トゥルー・グリット』

チャールズ・ポーティス著/漆原敦子訳 



 つい最近、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウェスタン映画「荒野の用心棒」を観る機会があったが、クリント・イーストウッド扮する凄腕のガンマンであるジョーをはじめ、アメリカ西部の開拓時代を舞台に活躍するのは、いずれも薄汚れた大人の男たちであり、女や子どもはあくまで弱い立場の者たち――虐げられるか、あるいは強い男の庇護のもとに生きるしかない弱者に甘んじるしかなかった。西部劇に登場するごろつきどもが吐く「おとなしく家に帰って、ママのオッパイでも飲んでな」という嘲笑のセリフは、西部未開地の弱肉強食の世界を象徴するものだ言うことができる。

 ジョー・R・ランズデールの『サンセット・ヒート』は、テキサス東部を舞台にした女治安官の西部活劇であるが、それでも時代は1930年代であり、ヒロインの女性は既婚者だった。19世紀後半のアメリカ荒野を舞台とする本書『トゥルー・グリット』は、悪漢に殺された父親の敵討ちをするという物語であるが、復讐を固く心に誓ったマッティ・ロスは、弱冠14歳の少女であり、西部劇としてはそれだけでも異例の設定である。

 なんという損失だろう! トム・チェイニーにこの報いを受けさせてやる! あのルイジアナのろくでなしが地獄の火に焼かれて苦悶の叫びをあげるまで、わたしの心が安まることはない!

 さて、いくら不屈の闘志を燃やしたとしても、マッティが14歳の少女であるという事実は変わらないし、父の形見となった銃をもってはいても、敵討ちの道具としてあつかえるほど鍛錬していない。敵討ちとは、自らの暴力をもって相手を討ち果たすことに他ならないが、無法者が生きる暴力の世界において、唯一対抗するための力を彼女はもちあわせていない。ふつうであれば、まだ大人の庇護を受けてしかるべきか弱き者が、それでもなお敵討ちをはたすためにどのような方法をとるのか、というのが本書前半の読みどころということになるのだが、そのさいに注目すべきなのが、マッティという少女が、自身の生きる社会においては荒野を生きる無法者も顔負けの悪漢ぶりをいかんなく発揮しているという点である。

 本書はおおまかに、マッティが復讐という目的をはたすために必要な戦力を準備する前半と、じっさいに敵討ちのためにトム・チェイニーが潜伏しているとされるインディアン移住区へと向かい、対決する後半にわけることができる。物語の前半と後半は、法が支配する秩序ある社会と暴力が支配する無法地帯というように、舞台となる世界の性質が対極の関係にあるのだが、純粋な腕力という意味では無力な少女であっても、法の支配する人間社会のなかであれば、度胸と機転によって大人を出し抜き、その力を利用することが可能だ。じっさい、本書の主役ともいうべきマッティ・ロスの魅力がいかんなく発揮されるのは、この前半部分だと言える。

 彼女が敵討ちのための力として目をつけたのが、保安官のなかでも格別に勇気のある人物として噂されているルースター・コグバーンであり、彼を味方につけるためにマッティはいろいろと奮闘するのだが、その方法として彼女が選んだのは、自分の弱者としての情に訴えるのではなく、あくまで対等な立場の人間として相手に自分を認めさせるというものである。ルースターを雇うために金が必要だとわかれば、その工面のために商売人相手に大人顔負けの交渉を仕掛けるし、ルースターが自分を置いていこうとすれば、脅迫じみた手段をもちいても自分の意向を押し通そうとする。

 とにかく父親の敵を討つ――悪党に復讐の相手が他ならぬ自分自身であることを思い知らせることを第一条件に考えているマッティには、あらゆる妥協が通用しない。その頑固さ、意固地さは、ともすると無法地帯の悪漢のようにさえ思えてくるものがあるのだが、14歳の少女が大人を相手に、年相応ではなく一人前の大人として認めさせるためになりふり構わない状態にあると考えるなら、むしろ健気な態度だと言えよう。だが、本書を読み進めていくとわかってくるのだが、最終的にマッティに雇われることになるルースターという飲んだくれの中年男は、保安官という職にあるものの、その考えはむしろ無法者に近いものがある。悪党どもに法の裁きなど無用、とにかく追いつめ、抵抗すれば殺すことも厭わないという彼のやり方はとことん独善的であり、じっさいにマッティの強い我としばしば衝突することにもなるのだが、そんなふたりの態度がどんなふうに変化していくのか、というのも本書の読みどころである。

 マッティとルースター、そしてテキサス州からトム・チェイニーを追ってきたというテキサス・レンジャーのラブーフ――追跡の対象は同じでありながら、思惑はそれぞれ異なっている三人の旅路は、それゆえにいろいろとかみ合わないところが多く、なかなか思ったように事が進まない。とくにマッティの場合、一度荒野に出てしまえばあくまで無力な少女にすぎず、頼れるのは精神的な執念、父親の敵を討つという強い思いだけである。だが、そうした損得勘定の入り込む余地のない強い思いというのは、ルースターやラブーフら大人たちが日々の生活に追われて忘れてしまっているものでもある。逆に言うなら、子どものころにはたしかにあったはずのひたむきさに触れて、何か感じるものがあるかどうかこそが、本書における悪党とそうでない者との分かれ目となっている。じっさい、ルースターとラブーフは物語のなかで、何度となくマッティを置いていこうとするのだが、それは年端もいかない女の子を危険な目に遭わせたくない、という思いやりから来ているものなのだ。

 はたして、マッティは見事敵討ちをはたすことができるのか、そしてルースターとラブーフは、彼女との同行の果てに何を思い、どのような行動をとることになるのか――けっして一筋縄ではいかない三人が繰り広げる、一風変わった西部小説をぜひ楽しんでほしい(2012.01.14)

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