【早川書房】
『Yの悲劇』

エラリイ・クイーン著/宇野利泰訳 



 ミステリーにおける探偵の役柄について、私はしばしばひとつの「機能」としてとらえているところがある。その作品内で発生した何らかの事件に対して、その謎のすべてを正しく解き明かすべく配置された者――これは逆説的に言うなら、およそミステリーというジャンルにおいて、探偵役としての「機能」を与えられた登場人物は、その「機能」ゆえに謎の真相を解明する宿命を背負わされている、ということになるのだが、私たちもよく知るように、物事の真相というものは、かならずしも私たちにとって優しく、好ましいものというわけではない。それがどれほど残酷な事実を指し示していたとしても、探偵はその真相をすべての読者に提示しなければならない。それは私たちが思う以上に荷の重い作業である。

 以前紹介した同著者の『Xの悲劇』では、探偵役となる人物の変人性について語っているが、その変人性も、ときには過酷なものとなる物事の真相を暴くという、人としての重責を受け流すのに必要な要素のひとつだと考えられなくもない。そうした特性もまた、ひとつの「機能」としての探偵の姿を際立たせることになるし、そもそも物事を正しく推理するのに人間らしい感情といったものは、むしろ邪魔になる可能性のほうが大きい。だが、にもかかわらず作品内において、探偵のいかにも人間らしい一面を垣間見るような場合に、個人として妙に嬉しく思ってしまうのは、やはり私が小説というもののなかに、まぎれもない人間としての姿を見いだすような読み方をしているからだと思われる。それゆえに、探偵であるにもかかわらず殺人事件の加害者のほうに肩入れしてしまうアントニイ・バークリーの『ジャンピング・ジェニイ』や、事件解決の過程において被害者を出してしまったことをことのほか思い悩む法月綸太郎の『生首に聞いてみろ』などは、これまで読んできたミステリーのなかでも独自の印象深さをもつものとして、私のなかでは記憶されている。

 わたしの唯一の希望は、このいまわしい事件に対処したわたしの気持ちを、人間的な立場から理解していただきたいことです。

 老齢の元舞台俳優ドルリイ・レーンが探偵役となるシリーズの第二弾にあたる本書『Yの悲劇』で、彼は例によってサム警視、およびブルーノ地方検事の要請を受け、富豪ハッター家で起こった殺人事件の謎に挑むことになる。とかく風変わりで、その言動が常軌を逸していることで、しばしばメディアのネタとして新聞紙上を賑わわせるハッター一族――その大黒柱として君臨していた老女エミリーが、何者かに殺害された。もっとも、ドルリイ・レーンが絡むことになるのは、その前に起こった毒殺未遂事件のほうであり、これはエミリーの前の夫の娘で盲目聾唖のルイザ・キャンピオンを狙ったものであったのだが、その犯人もわからないうちに起きてしまった第二の事件ということになる。

 じつは本書の冒頭において、エミリーの夫であるヨーク・ハッターが、船上で服毒自殺を遂げており、それ自体は事件性のない自殺として確定されたものであるのだが、まるでそれが引き金となったかのように、ハッター家で次々と起こることになる惨劇は、本書を読んでいくかぎりにおいて、頭脳明晰なレーンをもってしてもおおいに悩ませているように思われる。じっさい、そうした描写が前作以上に頻出しているし、エミリーの殺人事件ひとつをとってみても、その凶器として使われたのが楽器のマンドリンであるという奇妙さがある一方で、毒入りの梨が用意されていたことから、以前の毒殺未遂の手際を思わせる狡猾さ、用意周到さも見え隠れし、そもそも犯人はルイザを殺害する予定だったのか、あるいはエミリーが本命だったのかすらあやふやになってくるのである。

 悩んでいる、とは言っても、レーンの明瞭な推理力が衰えているというわけではない。じじつ本書において、サム警視が見当違いな方針をとろうとするたびに、レーンはきわめて論理的な推理によってその見当違いの根拠を説明し、捜査の方針転換をうながしている。それがミステリーにおいて目を見張るような見事さであることは前作以上であるのだが、にもわかかわらずレーン自身は、どこかその推理に納得し切れていないばかりか、得体の知れない焦燥感にとらわれているようなところをしばしば見せている。そしてここでも前作同様に問題となってくるのは、今回の事件の真相という表側の謎とは別の謎、すなわちドルリイ・レーン自身が今回の事件について何を考え、どのような思いをいだいているのかという謎である。

 この真相は、あくまでつきとめねばならぬ――おそらくそれは、眼をおおうような悲惨なものであろうが……その悲惨な結末がさらけ出されたとき……彼はそれを思って、内心慄然とした。恐怖と苦痛に、胃の腑の痙攣までを味わった。

 このシリーズでは、探偵と警察の役割というのが比較的はっきりしている。探偵は当然のことながら事件の真相を解明する役目であり、警察は探偵の引き立て役、つまり誤った推理を披露しては探偵にたしなめられるという役どころであるが、それ以上に本シリーズの場合、彼らは法の番人という役割を強調されているところがある。もちろん、彼らにも個性というものがあり、それゆえにレーンとの絡みにおいて、サム警視やブルーノ地方検事の人柄が浮かび上がってくるのだが、およそ殺人事件に対したときに、彼らにとって最優先事項となるのは、犯人の逮捕という一点に絞られてくる。

 これは警察にとっては、犯人が誰かさえわかってしまえば、極端な話、すべての謎が解けなくとも問題ではないということである。そしてミステリーとしてそうさせないためにこそ探偵という役どころが重要となってくるのだが、本書における探偵であるレーンの、およそ探偵らしくない焦燥の本質は、彼がまぎれもなく探偵としての「機能」をはたしているからこそのものであることが、すべての謎が明らかになることで見えてくる。ここで明確にしておかなければならないのは、レーンは物語の早い段階において、すでに事件の犯人が誰であるかを見抜いているという点である。そしてその探偵ゆえの鋭すぎる洞察力ゆえに、ひとりの「人間」としてのレーンは苦悩しなければならなくなる。

 巧妙に張られた伏線、あまりにも意想外な犯人像、そしてそのすべてを明らかにする探偵の鮮やかな推理――たんにミステリーとしてもきわめて高い完成度をもつ本書であるが、私にとって何より印象的だったのは、他ならぬ人間としてのドルリイ・レーン像である。はたして今回の一連の事件において、レーンは「探偵」であることの自分にどのような運命を見いだすことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.05.12)

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