【集英社】
『おっぱいとトラクター』

マリーナ・レヴィツカ著/青木純子訳 



 六十年間付き添ってきた最愛の妻を亡くした八十過ぎの老人が、その二年後に自分よりもふたまわりくらい年下の女性に入れあげ、あまつさえ結婚しようとしている――けっしてありえないことではないが、それでも滅多にないであろうこのような事態に対する息子や娘たちの反応は、たいていは「みっともないからやめてくれ」に相場が決まっている。だが、この「みっともない」という彼らの感覚がどこから来るものなのかについて考えてみると、たんに年の離れすぎている婚約相手とか、すっかりいい年の老人であるとかいった問題以前に、そこには自分のルーツとなる人物、すなわち自分たちの父親あるいは母親に対する、まさにその「父親」「母親」という役割が、どこかで破綻してしまうことへの怖れがあるのでは、というひとつの仮説が浮かび上がってくる。

 子どもにとって、親というのは生まれたときから「父親」「母親」であって、それ以外の認識を持ちづらい存在という意味で、特別なものである。まだ若い人の再婚でさえ、その連れ子にとって大きなストレスとなるのは、それまでまったくの他人だった人が、いきなり「父親」や「母親」という特別な存在になることへの困惑から来るものだ。息子や娘にとって、再婚というイベントは、自分の親が親である以前に、男女の性をもつ人間であるという事実を突きつけられることを意味する。そしてそこは、理屈や論理といったものがきわめて介入しづらい領域でもある。今回紹介する本書『おっぱいとトラクター』は、まさにそんな「滅多にない」事態に遭遇することになった娘を中心とするドタバタもののコメディであるが、同時にそれまで知らなかった――知りたくとも知らされなかった家族の過去、その歴史を掘り起こすきっかけとしても機能しており、そういう意味で深いテーマ性を内包している。

「まったく、男って奴はどいつもこいつも同じなのね。セックスが万能薬だと思ってるんだから」

 本書のなかで一人称の語り手となるナジェジュダは、四十九歳の大学教師。結婚もしており、一児の母でもある彼女のもとに振って沸いたような、父親ニコライの再婚話――しかも相手の女性は、ウクライナから観光ヴィザでイギリスに来ている三十六歳の未亡人で、性的魅力に溢れるナイスバディの持ち主でもある。ニコライ自身は、息子のスタニスラフとともに人生の再出発をはたしたいというその女性、ヴァレンチナにすっかりお熱なのだが、何をどう考えても女の目的は父親の財産とあらたなヴィザであることは見え見えであり、どうにも容認しがたいものがあったナジェジュダは、死んだ母親の遺産相続の問題で争っている姉ヴェーラといったん休戦、父親とその財産を守るため、なんとかヴァレンチナを追い出そうと作戦を練ることになるのだが……。

 それまで険悪だった家族関係が、父親の再婚相手という共通の敵の出現によってそれどころではなくなり、いろいろとドタバタ騒ぎを引き起こしたあげく、最終的には姉妹同士の争いも解消され、あらためて家族の関係が修復されていく、というストーリーではあるのだが、こと本書において大きな鍵となるのは、ウクライナという国である。ロシア革命からスターリンの台頭、第二次大戦、その後のソ連社会主義体制とその崩壊をとおしてさまざまな苦難を経験し、独立後もなお問題の火種が絶えないこの国は、かつてニコライとその妻リュドミラの出身地であり、またその先祖たちの生まれ育った国でもある。そして、彼らはその国で起こった悲惨――人為的な大飢饉や粛清の嵐――の一端を体験したものの、今ではその国を脱出し、イギリスの地に安住しているという過去がある。

 ニコライはたしかに新しい恋人のヴァレンチナの豊満な胸にメロメロのように見えるし、またヴァレンチナ自身、高慢ちきなあばずれを絵に描いたような人物でもあり、そういう意味で今回の結婚が欲得づくのものでしかないという姉妹の見立てはこのうえなく正しいものなのだが、たんにヴァレンチナの性的魅力だけでは、今回の結婚に対するニコライの頑固なまでのこだわりは説明しきれないものがある。そこで生きてくるのが、ヴァレンチナがウクライナ出身であるという設定だ。ウクライナという国の困難な状況を知るニコライにとって、「西側」たるイギリスで人生をやり直したいという彼女の訴えが、彼の心を動かすきっかけになったことは、想像に難くない。

 本書を読み進めていくと少しずつわかってくることであるが、この物語に登場する、ウクライナ出身の人たちは、いずれも相当な頑固者である。ニコライは言わずもがな、亡くなった母親にしても、食料を自給自足し、とにかく倹約に努めるという点においてはけっして折れることのない意志をもちつづけた女性であるし、姉のヴェーラにいたっては、とにかく相手の心を疑ってかかるという疑心暗鬼な性格ゆえに、父親とも対立しつづけているという状態である。そしてこの一族のなかでは、ウクライナではなくイギリスで生まれ育ったナジェジュダは、その息子娘世代を除いては、唯一「西側」の自由思想の恩恵を受けて育った女性でもある。

 それゆえに、彼女はヴァレンチナをニコライから引き離したいという思いはあるものの、ヴェーラのように国に強制送還させるといったことにはやりすぎだという考えをもつことができており、またヴァレンチナをひとつのきっかけに、自身のルーツにもつながるウクライナでの家族の過去についても、しだいに触れていくようになる。しかしながら、父親にしろ姉にしろ、過去のことについてはなかなか口を開こうとはしない。そういうところもまた頑固であり、語り手は父親、姉、そしてヴァレンチナの三大頑固者に挟まれておおいに苦労させられることになる。

「あんたたちの世代ってのは、人生の上っ面だけ撫でて生きてるから困るのよね。やれ平和だ、やれ愛だ、やれ労働者統制だとか言ってね。どれもこれも理想主義者のたわごと。そんな無責任なことを言っていられるのも、人生のどろどろした闇の部分を知らずに生きてきたせいなのよね」

 口の悪さややり口のあくどさではヴァレンチナ以上にキツいところのあるヴェーラは、ナジェジュダとは十歳年上の姉であり、また語り手とは異なりウクライナでの生活を知っている女性でもある。こうした彼女の憎まれ口は、母親の遺産相続の件で争っているさいにはことのほか人の神経を逆なでするものであり、とくにナジェジュダにとっては効果抜群でもあったのだが、今回の一連の騒動をきっかけに、そこに「なぜ」という疑問が差し挟まれる。何が姉をここまで疑心暗鬼な性格にしたのか。父親と母親はどのような経緯で一緒になり、ウクライナでどんな生活をしてきたのか――そこには家族を「家族」という役割としてではなく、自分と同じひとりの人間として見る視線がある。そう、本書は基本、家族のごたごたを描いたコメディではあるのだが、それ以上に自身のルーツを探る物語であり、また家族への認識を再構築していく物語でもあるのだ。

 人生とは生きていくことに他ならない。そして生きていくということは、かならずしも綺麗事だけで済ませられるわけではない。それはヴァレンチナにしろ、ニコライやヴェーラにしろ同じことである。ウクライナ人に救いの手を差し伸べようというニコライの夢想――老いた彼のそれは、ひとえにヴァレンチナの「おっぱい」と、彼が長年たずさわってきた「トラクター」の技術に結びついているのだが、その背後にある一族の過去が、どんな形で今という時間とつながっているのかを、ぜひナジェジュダとともにたしかめてもらいたい。(2013.07.26)

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