【角川書店】
『永遠の島』

花村萬月著 



 あなたはこれまでに、自分が本当にこの世に存在しているのかどうか、ということを考えたことがあるだろうか。自己存在の証明――たとえば私たちはふだんから、自分の目でものを見、自分の耳でものを聞き、自分の手でものに触れてその感触を確かめることで、自分をとりまく世界を認識し、それを認識している自分自身というものを知覚している。だが、一度その五官の感覚を知識という名のフィルターを通して見てみると、あらゆる感覚は神経という電線を通るたんなる電気信号であり、脳という制御装置を介してはじめて「感覚」として認知される、という事実と直面しなければならなくなる。自分の肉体、そして感覚という、ひどく生々しく思えるものも、細胞レベルにまで分解してみれば、そこにあるのはただ「生きる」という状態を維持するだけの、究極の機能美をそなえた機械であり、私たち人間は、その機械の寄せあつめに過ぎない、ということになる。
 そんな機械の寄せあつめである肉体のどこに、自分というものが存在するのか、いったい、何をもって自分が自分であることを認識するのか――だが、そんなことをいくら考えたところで、腹が減れば空腹感を覚え、疲れれば眠くなり、怪我をすれば痛みを感じ、寂しくなれば人肌のあたたかさが欲しくなる。電気信号だろうが何だろうが、その感覚は事実として、少なくとも私にとっては在るものだ。そして、生々しくありながら同時に論理的・機能的でもある肉体の矛盾を強烈に意識したとき、私たちは自分という個の実在に対して「なぜ?」と問うことの無意味さを思い知ることになる。

 本書『永遠の島』に登場する竹本洋子もまた、自己の存在ということに関して、小さい頃から思い悩んでいた女性であった。ただ、洋子が他のインテリたちと違ったのは、自己存在の証明を自分の内側からではなく、自分の外側から得た、ということ。「超越した存在」と洋子が呼ぶ概念――洋子の肉体にめくるめく快感を与えるという、精神的であると同時にひどく生々しい感覚と結びつくその存在によって、自分がまぎれもなく生きているということを認識してしまった洋子が、一方でその存在の意味を問うために哲学へとその目を向けると同時に、オートバイという、非常に機能的な存在にも興味を向けたのは、細胞という「生きる」ための機械の寄せあつめとしての人間、ということを考えると、ひどく象徴的であると言えよう。

 そんな洋子の興味を強く惹いたのは、日本海の中央に位置する匂島、という島だった。日本海屈指の魚介類の宝庫であり、周辺諸国にとって重要な漁場でもあるその匂島近海では最近、まるでバミューダ・トライアングルのように、次々と船が消息を絶つ、という事件が続いていた。しかも、何故か日本のマスコミはおろか、同じように自国の船が被害にあっているはずの諸外国までも、まるで何事も起こらなかったかのように、沈黙を守っている。
 唯一、その調査を行なっている物理光学研究所の臨時の助手として、調査の手伝いをすることになった洋子は、次第にすべてが自分を匂島へと向かわせるために動いている、ということを直感することになる。そして、洋子は匂島に向かうための鍵となる人物、松田政と出会う……。

 本書を読んでいくと、あるいは本書がひどく理屈っぽい小説だと思う人もいるかもしれない。それは、ある意味正しい反応だと思う。洋子は冒頭から「自己の存在」などという、ひどく難しいことについて真剣に考え、その意味を知るために哲学なんかを勉強したりしているし、物理光学研究所の高階教授や梶田などは、匂島近海で起こる不可思議な現象について、相対性理論がどうとかミンコフスキー時空間がどうとかいった、物理の理論や数式を持ち出しては、必死になって理屈で説明しようと試みる。そのために、いろいろな知識をあちこちにちりばめた本書は、一見すると知識のひけらかし、薀蓄を自慢するかのような雰囲気をたたえてしまいがちなのだが、本書がほかの薀蓄小説とあきらかに一線を画しているのは、本書に出てくる多くの理屈が、じつは不可思議な現象を科学的に裏づけるためではなく、むしろ理屈そのものを否定するための材料として使われている、という点なのである。

 そう、巨大なダイヤモンドが石ころのように転がっていたり、その中にこびとが閉じ込められていたり、海がシャボン玉のようになって、その内側に船を閉じ込めてしまったり、あげくのはてには人がすごい勢いで年をとっていったり、逆に若返ってしまったりするという、およそこの現実世界においてはありえない、いやあってはならないでたらめな現象が起こることについて、人間ごときが思いついた稚拙な理論で説明などできるはずがないのだ。数多くの理論を展開しながら、最後になってそのすべてを裏切ってしまう、という手法は、同じく著者の『鬱』という作品にも見られたものであるが、そんななか、唯一匂島まで安全に行き来することができる政だけが、そんな理屈を超越したような場所に立っているように見える。理論ではなく、経験と勘で潮を読み、船を飲み込んでしまう空間の裂け目をいち早く察知する政の存在、理屈を超越しているがゆえに、ときに残酷で暴力的でさえある政の存在は、あるいは洋子の感じた「超越した存在」にもっとも近いところにいる人間なのかもしれない。

 そして、人間の都合や理論のいっさい通用しない、人間とはまったく無関係に存在している匂島に触れた洋子は、善や悪といった概念を超えた永遠をまのあたりにすることになる。

 洋子はいままで意味を求めて生きてきたようなものだ。意味と答えを求めて、哲学を学び、梶尾から借りた物理の本に眼を通した。
 意味にどれだけの意味があるのか。意味に耽溺している瞬間は、全てをわかったような気になる、しかし、それはすぐに瓦解する。
――(中略)――あるがままを受け入れる以外に、この島でなにができるというのか。

 人が人であることの意味、自分が今、ここに生きていることの意味――そういった知識に妙に詳しくなった頭でっかちの人間が、肉体がもつ生々しさに対してどんどん希薄になっていく一方で、普通の刺激に満足できなくなった人たちが、どんどん大きな刺激を求めてアブノーマルな行為へと走っていく現代において、著者は常に「永遠」を探しつづける探索者であると言うことができるだろう。人間の知識によってつくられたものを否定し、それ以前の場所にあるものに目を向けている著者の作品は、ときにひどく俗っぽいものでありながら、同時に神聖でもあるという矛盾を抱えている。そして、私たちがその作品に対してできるのは、それがある、ということを素直に認めることだけなのかもしれない。(2000.06.04)

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