【集英社】
『永遠の1/2』

佐藤正午著 
第七回すばる文学賞受賞作 



 たとえば、六人がくじをひとつずつ引くとする。くじの数が六つで、そのなかに「当たり」がひとつだけ入っているとすれば、誰がどのような順番でくじを引いたとしても、先に引いた人間がそのくじの内容を全員にあきらかにしないかぎり、「当たり」を引き当てる確率は誰もが平等に六分の一になるはずである。だが、人間というのは面白いもので、くじを引く順番によっていかにも「当たり」を引く確率が変化するように錯覚しがちである。それどころか、ここ最近の自分の運勢であるとか、あるいは自分が今「ツキ」をもっているかどうかといった、くじびきの確率とはまったく関係のなさそうな要素に依存したりすることもある。

 競馬にしろパチンコにしろ、あるいは賭けマージャンにしろ、私はそうしたギャンブル性の高い娯楽にはほとんど興味をもたない人間であるし、いわゆるビギナーズラックに恵まれたこともないのだが、そうした娯楽に深くかかわっている人たちにとって、自身の「ツキ」とか、あるいはジンクスとかいった要素は、意想外に重要なものだったりする。今の自分にはたしてツキがまわってきているのか、あるいはそうでないのか――そのいかんによって、ときに人は積極的に勝負に出たり、あるいは慎重に様子を見たりするし、どうしてもツキがないようなときに、そのツキを引き寄せるための儀式めいたことをしたりもする。そうしたものと、たとえばギャンブルで勝てるかどうかといったものとが、どこまで結びついているのかはわからないし、あるいは「プラシーボ効果」とかいった用語で説明のできることなのかもしれないが、ひとつだけたしかなのは、何かを成し遂げようとして成功したり、あるいは失敗したりしたときに、自身がどれだけ努力したかといったことを抜きにして、とりあえず自身の「運不運」のせいにしてしまう、というのは、良きにしろ悪しきにしろきわめてシンプルな結論づけだということである。

 そういう意味で、本書『永遠の1/2』において、問わず語りに話をはじめる一人称の田村宏の「失業したとたんにツキがまわってきた」という冒頭の言葉は、彼自身の生き方を象徴するもっともシンプルな表現だと言える。彼は現在二十七歳、高校卒業後、大学には行かずに地方公務員となるものの長くはつづかず、その後何度も会社に就職してはやめるということをつづけている失業者であり、今回の失業で一年ほどつづいていた婚約者との関係もご破算になってしまう。これだけをとってみれば、とても彼の前途は明るくはないはずなのだが、当の本人にいたっては、自身のマイナス要素さえも「ツキ」を変えるためのものとして、あくまで楽観的な受け止めかたをしている。

 物語それ自体は、この田村宏という男の失業してからの一年間と数ヶ月の出来事を追う、という形で進んでいく。そこに描かれている田村は、失業保険のお金で競輪に精を出したり、今は学校教師となっている高校時代の友人と、女のことでとりとめもない話をしたり、競輪所内のしょぼい喫茶店で知り合った女性と付き合いはじめたりといった、とくに目的も、やるべきこともないような生活をだらだらとつづけるだけなのだが、そんな失業男の危機感のない生活のなかで、ひとつだけ気になることが生じてくる。
 どうも自分とそっくりの顔をした男が、この町にいるらしい。じじつ彼は、とある娼婦に「どこかで見たような気がする」と言われたのを皮切りに、さまざまな人たちからそのそっくりさんと間違えられることになるし、その男とすれちがったじつの父親や妹ですら、自分の目を疑うほどよく似ていたと彼に告げる。しかもその男、どうやら何度もべつの男がいる女性と駆け落ちしていたり、大金を持ち逃げしていたりと、ほうぼうで人の恨みを買っているらしく、それゆえに彼とそっくりの田村が、知らない人間に出会い頭にぶん殴られたりといった、理不尽な目にあわされたりするのだ。

 はたして、この自分とそっくりの男――野口修治という男は何者なのか。そして彼は、この町でどんなことをしでかしたというのか。ある意味、巻き込まれる形で否応なく野口との関係性を問いたださずにはいられなくなった田村ではあるが、では彼自身が自分とそっくりの男を捜すために何かをはじめるのかというと、じつはそんなことはない。たしかに、野口のせいでそのとばっちりを受ける羽目になる田村ではあるが、それで彼自身がその後、命の危険までさらされるような事態になることはなく、けっきょくのところその場その場の思いつきと勢いで行動するだけで、そんなことで野口との距離が縮まるはずもない。自分以外の何人もの人間が見ているはずの、自分とそっくりの人間を、自分だけが見られない、という事実――だが、それはたしかに気になることではあるものの、彼自身は競輪所で知り合い、恋人のような関係になった小島良子が、じつはもうすぐ三十路に手が届く出戻り女であり、彼女との関係について今後どうするべきなのか、という目の前の問題のほうが、いかにも重要なことのように話を進めているし、それは事実そのとおりでもある。

 もし、本書をミステリーとして定義するとすれば、それは探偵役の人物が不在のミステリー、ということになる。田村にとっての野口は、たとえば探偵と、彼が到達すべき真相という関係性で結びついているわけではない。だが、自分と顔がそっくりという点で、まったくの無関係でいられる間柄でもなくなっている。じっさい、本書のなかで田村の意識は、最初の頃は自身のもつ「ツキ」にばかり関心がいっていたにもかかわらず、物語が進むにつれて、彼の意識は少しずつ野口修治という男の存在のほうへとシフトしていく。では、田村にとっての野口とは何なのか、という問いについて、ひとつ答えを用意するなら、それは田村にとってのもうひとつの可能性、と言うべきものである。

 就職しては失業というくり返しばかりの自分、何人かの女性と付き合っても、なかなか結婚という地点にまでたどりつけずにいる自分――だが、野口という男はたしかに困った人物であるかもしれないが、女子高生と平気でステディな関係になったり、まんまと大金の持ち逃げに成功したりと、今の田村とはずいぶん違った生き方をしているようだ。なかなか会えないでいる野口に対して、徐々に募ってくる「一度会ってみたい」という田村の思いは、それゆえに言葉でうまく説明できるものではないのだが、なにより「ツキ」というものを大切にする田村にとって、野口の存在は、それまでの悪循環を逆転させる、ひとつのきっかけになるのではないかと考えていたとしても、さほどおかしなことではないだろう。彼は自分と同じ顔をしているのに、自分とはぜんぜん違うことをしている、と。

「百日。つき合ってみろ、長いぞ。永遠の半分だ」
「結婚してみろ、短くなるさ。永遠のひとしずくくらいには」

 一月から十二月まで、律儀に月を追って、そこで何があったのかを書いていく本書であり、その物語の流れが収束していく先に、田村と野口との対面があるのは間違いない。はたして、そのことで何が変わるのか――あるいは何が変わらないのか。それは、なにより「永遠の半分」という、とらえようによっては長くも短くもなる表現がすべてを物語っていると言える。謎解きよりも登場人物のおくる日常と、そこにひそんでいる非日常との絶妙なバランスに重きを置いている本書を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2007.01.10)

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