【マガジンハウス】
『図書館の神様』

瀬尾まいこ著 



 唐突ではあるが、歯の話をさせてもらう。
 私の歯は体質的にあまり強いほうではなく(もしかしたら甘党、という原因もあるのかもしれないが)、きちんと歯磨きをしてもどこかが虫歯になってしまうことが多い。それゆえに、年に一度の歯石除去と定期健診は欠かせない私的イベントのひとつとなっているのだが、そのかかりつけの歯科医の話によると、下手に歯の丈夫な人よりも、歯が弱くて歯医者にかかっているような人のほうが結果的に歯が長持ちする、ということらしい。歯が丈夫な人は、それゆえに専門的な手入れを怠りがちになってしまい、かえって歯を駄目にするケースが多いのだそうだ。

 五体満足で生まれ育った人は、先天的な障害を抱えている人たちの気持ちをわかってやることが難しい。もって生まれた才能で100mを12秒台で走ることができる人は、どれだけ練習しても100mを14秒台でも走ることができない人の気持ちを推し量ることが難しい。人との付き合いにおいて、こうした個々の性質や主義主張の違いがえてして人間関係の摩擦や衝突の原因となることは多い。けっして前者が悪いというわけではない。むしろ彼らは、彼ら自身の基準においてはごくごくあたりまえの「正しさ」を突き進んでいるだけのことなのだ。

 自分以外の誰かとどうやって分かり合っていくか――この命題は突きつめていくと、自分以外の誰かの心理を(ときには自分自身の心理でさえ)完全に理解することなど不可能だという極論にたどりついてしまうのだが、だからといって他人を思いやるための努力はやるだけ無駄だと放棄してしまっていい、というわけでもないし、そのための努力はけっして無駄になるわけでもない、とも思っている。私が本書『図書館の神様』を読み終えたときに、ふと心のなかに思い浮かんだのは、こうした自分と他者とのあいだを絶望的なまでに隔ててしまっている障壁と、その障壁をまえにして人々が何を考え、どう思うのか、ということだった。

 本書に登場する早川清の現状は、かぎりなく曖昧でいい加減なものとなっている。ある海の見える地方の高校講師としてとりあえず一年間は先生まがいのことをすることになったものの、正式な教師としてやっていこうという気はさらさらないし、その講師になった理由も、どこかの学校のバレー部の顧問になれれば、というなんとも安易なものでしかない。付き合っている男性はすでに結婚して奥さんをもっており、とても恋人どおしと胸をはって言えるような関係ではなく、また不倫と言ってしまえるほどドロドロしたものでもない。文学のことなどほとんど興味もないのに大学では文学部に所属していたし、それゆえに担当の国語にも今ひとつ身がはいらない。なにより、講師として採用されたのはいいが、彼女の思惑とは裏腹に、配属された部活は文芸部。垣内という生徒がたったひとりいるだけの、あってもなくてもいいような部の顧問である。

 だが、清の本質はけっしてぐうたらでも投げやりでもなく、むしろ自分が正しいと信じる道をわき目も振らずに突っ走っていくところがあった。それゆえに、中学のときにはサッカー部に所属し、それなりの成績も出していた垣内が、よりにもよって文系の文芸部に身を置いているのが、どうしても理解することができずにいる。サッカーよりも文学のほうが面白いとはっきりと答える垣内の言葉を、そのまま受け入れることができないのだ。

 私は腑に落ちなかった。サッカーより文学が面白いわけがない。ボールを追いかけて走り回ることより、本を読むことが愉快なわけがない。みんなで一つになって練習に励むことより、一人で文学を研究することがやりがいがあるわけがない。

 私たちの生きている現実においても、さまざまな場面においてこの手の思考をする人はいる。というか、誰もが大なり小なり自分なりの正義にしたがって生きているようなものでもあるのだが、彼女の場合、ともするとその「自分なりの正義」を世間一般の常識であるかのように他人にも強要してしまうようなところがある。じっさい、彼女はそのせいで過去にとり返しのつかない事態をまねいてしまった経験があるのだが、そういう意味では本書は、何よりも大切にしていたものを失くしてしまった清が、その深い痛手から立ち直るまでを描いた救いの物語だということになる。

 本書に登場する文芸部の垣内や、清の弟である拓実は、清とは対極に位置する人物である。何かひとつのことに勢い込むような精神的強さはないが、代わりに自分以外の誰かの主義主張をそのまま受け入れてしまうだけの寛容さとやさしさをもっている。そして、その垣内が他ならぬ文芸部に所属し、文学を日々研究しているという点こそが、本書の大きな特長のひとつでもある。本書はたしかに、清の救いと人間的な成長を描いた物語ではあるが、垣内の視点からとらえたとき、私たちはこの世に数多くある本というもの、そして読書という行為の本質が何なのかを、あらためて考えさせられることにもなる。

 高校の講師となった清は、これまで誠実でありつづけたすべてを失っていた。それは同時に、まぎれもない彼女自身をむき出しにしたような状態であり、それゆえに清は、本来ならけっして相容れることもなかったであろう垣内と、ひとりの対等な人間として向き合っていくという行幸を得た。そして、そんな人と人との関係は、垣内における自身と本との関係、しいては読者と作者との関係にもつながっていく。世の中にはじつにさまざまな人たちがいて、いろいろな主義主張があるということ――本と向き合うことが、それを書いた人と向き合うことであることを、本書は何よりも雄弁に物語っているのだ。

 うまい下手にかかわらず、知っている人の書く言葉はちゃんと心に響く。――(中略)――川端康成と親しくなれば、『雪国』だってちょっとは愉快になるかもしれない。もっともっと文学を面白くするために、垣内君はあんなに懸命に川端康成のことを知ろうとしているのだろうか。

 清く正しくまっすぐでいつづけることは、けっして悪いことではない。だが、その清さや正しさは、けっして万国共通のものではなく、あくまでその人自身にのみ通用する清さや正しさであるということを知らなければ、彼の行為はいずれ清さや正しさからは外れていくことになる。自分という人間が、けっして特別でもなんでもないということ、そして人と人とが向き合うのと同じように本と向き合うということ――このふたつのことがひとつに結びついたとき、読者はきっと本書のタイトルである『図書館の神様』が意味するものを知ることができるに違いない。(2005.05.22)

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