【文藝春秋】
『年を歴た鰐の話』

レオポール・ショヴォ著/山本夏彦訳 



 きむらゆういちの『あらしのよるに』からはじまる児童書シリーズは、オオカミとヒツジという、本来であれば食物連鎖における捕食者と被捕食者の関係にあるはずの二匹が友情という絆で結ばれてしまい、オオカミのほうがその友情と食欲という本能的な欲求との葛藤に悩む様子を描いたものである。また、井上剛の『マーブル騒動記』は、人間にとって食料であったはずの食用牛が人間並みの知能を獲得してしまい、生きる権利を主張する牛の対応に、食べる側であるはずの人間が右往左往するさまをコミカルに描いたものである。いずれの作品においてもある程度共通して言えるのは、高度な倫理観、博愛、あるいは利他主義や愛情といった、人間の論理が生み出した特殊な節制が、生物として生きていくための原始的な欲求を超えることができるかどうか、というひとつのテーマであるが、それは必然的に、どれだけ人間以外の動物を登場人物にしたとしても、けっきょくは擬人化されたもの、人間と同じ人格をそなえ、人間と同じようなものの考え方をするもの、という意味で、すでに動物ではありえない生き物と化してしまっている。

 もちろん、動物を擬人化することによって、作者の伝えたい事柄がよりシンプルに表現することができる、という意図があることは充分承知してはいる。だが、私たち人間もまた動物の一種であるにもかかわらず、ともすると人間的なもののとらえ方で勝手に世界を規定しようとする癖に縛られているとすれば、それはある意味で人間であるがゆえの不自由さを背負っている、という見方もできる。本書『年を歴た鰐の話』は、表題作をふくむ三つの作品を収めたもので、随所に著者自身が描いたという挿絵がついているという装丁は、一種の絵本、寓話集ともいうべきものを感じさせる。そして、いずれの作品においても、人間以外の動物や魚が登場し、ものを考えたり言葉を交わしたりするのだが、では彼らが私たち人間の何らかの意図を背負った、擬人化された人格なのかといえば、必ずしもそうとばかりは言えないものがある。

 たとえば、表題作である「年を歴た鰐の話」では、何千年という長い年月を生きたと思われる、エジプト生まれの鰐が出てくる話であるが、この年寄り鰐、寄る年波のせいで以前ほどうまく餌にありつけることができないからという理由で、同族の小さな鰐を共食いしてしまうばかりか、わざわざ彼のために魚を獲ってきてくれた蛸まで最終的には食ってしまう。ずいぶんと言えばずいぶんな展開の話ではあるが、おそらくそんなふうに思うのは人間だけだろう。本書の鰐は、そんな人間の思惑とはまったく関係ないところで生きてきたはずであり、鰐はまさに鰐としての生き方をしているだけなのだが、そんな鰐も最後には、まったく思いがけない理由で人間の思惑にはまってしまうことになる。生きのびたい、食べたいという欲求に率直なまでに忠実な鰐の行動と、その鰐を神様として祭り、自ら進んで食べられようとさえする人間――はたしてどちらが珍妙なのか、という皮肉な問いかけが、そこにはある。

 本書のほかの作品についても、人間は登場するが、そこに描かれている人間は、あくまで種のひとつとしての「ヒト」というとらえかたが強い。「のこぎり鮫とトンカチざめ」は、病気で寝ている父親が五歳の息子にお話を語って聞かせる、という形式で物語が進んでいくが、そこでも出てくる人間は、どちらかといえば個性がはっきりとしていない。それは、この物語が人間寄りではなく、鮫や鯨たち寄りの視点で書かれているからに他ならないのだが、それは話をしている父親が、登場人物である鮫たちを擬人化するような表現――たとえば「大声をあげた」や「かけ足で逃げだした」といった表現に、息子がいちいち突っ込みを入れていることからもわかることだ。

 そのなかでも、唯一普通の小説に出てくるような人間が登場するのが「なめくじ犬と天文學者」だが、この話のなかでは人間だけでなく、犬やかえるといった動物も、すべて人間となんら変わらない立場で話をし、行動を起こしている。とくに、「なめくじ」という名の学者犬は計算が得意で、サーカスでその技を披露して活躍していたのだが、主人にぞんざいな扱いを受けたことに腹を立て、ついにサーカスを飛び出してしまったりする。そしてなめくじ犬は、高度な計算は得意なのになぜか単純な割り算ができなくて悩んでいる天文学者のもとに、自身の居場所を見出すことになる。

 そう、本書に収められた作品に登場する動物たちは、いずれもどこかに長く定住することなく、広い世界をさまよいつづけている。そして意識するしないにかかわらず、彼らは自分の居場所を探し求めている。そんな彼らのしでかす数々の事柄は、ときに残酷であり、ときにまったくの無意味にさえ思えてくるのだが、そもそも私たち人間の生にしたところで、本当に何かの役に立つようなこと、建設的なことを、はたしてどれだけしていると言えるだろうか。むしろ、地球全体からすれば、害になることばかりしているのかもしれないのだ。そんな認識をもったうえで、あらためて本書を読み返してみると、彼らの言動をまったく違った意味合いで受け止めることができるようになるはずである。

 子どもというのは、ときに私たち大人の思惑とはまったく無関係に、突き抜けた発想を見せて驚かせてくれることがある。本書がはたして絵本なのか、児童書なのか、それとも小説なのかはわからないが、ただひとつだけ言えるのは、少なくとも本書を読んでいるあいだだけは、人間としての私たち、大人としての私たちが、知らないうちに囚われてしまっているさまざまな事から解放されている、ということである。(2005.12.12)

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