【双葉社】
『竜巻ガール』

垣谷美雨著 
第27回小説推理新人賞受賞作 



 人は誰もが幸せになりたいと思っているし、また幸せになるべきだとも思っているが、すべての人が平等に幸せを享受できるほど、私たちの生きるこの世界は甘くはないということも、よくわかっているつもりである。そもそも人は生まれながらにして平等ではありえない。裕福な家庭に生まれる者もいれば、極貧の家庭に生まれてしまう者もいる。私たちが生まれる環境や時代を選べない以上、そうした不平等は仕方のないことだ。だが、少なくとも幸せをつかむべく努力することは許されている。

 ところで、私たちにとって「幸せになる」とはどういうことなのだろう。それこそ人によって千差万別であることは百も承知で、あえて定義してみるなら、それは「欲望を満たすこと」ということになる。お金が欲しい、安定した生活がしたい、あたたかな家庭がほしい、出世したい――人は欲望の生き物であるし、欲望を満たすためにこそ生きているとも言える。そして、その欲望を満たすものが誰かから与えられるものではない以上、自分の力でつかみとっていくしかない。たとえ、そのことで他の誰かの幸せが壊れることになったとしても。繰り返しになるが、すべての人が平等に幸せになれるほど、この世は甘くはないのだ。

 仮に「無欲になりたい」と思ったとしても、それ自体がひとつの欲望の形だ。人間は欲望を満たして幸せになりたいという願望からは逃れられない。そして、そこから人と人とのつながりが生まれ、関係が進展したりこじれたりし、その結果誰かが幸せになることもあれば、不幸になることもある。幸せになりたいという努力の方向は、常に正しいものとは言えないが、その純粋な努力、そのひたむきさというものは、やはり何かを心に生じさせるものがある。本書『竜巻ガール』は、表題作をふくむ四つの短編をおさめた作品集であるが、いずれも自身が求める幸せをつかむために、卑怯で醜くはあるが、それでも懸命に努力していく女性の姿を描いた物語でもある。

「おまえはトルネードやな」
「トルネード? 何それ、竜巻のこと?」
「そうや。ある日突然現われて、そこらじゅうをめちゃめちゃに壊したいだけ壊して、さっさと自分だけおらんようになってしまう」

(『竜巻ガール』より)

 見渡すかぎり山と畑しかないような兵庫県北部の片田舎に、今ではもう死滅したかと思われるガングロメイクの少女という、かぎりなくミスマッチな光景が強烈なインパクトを与える表題作の『竜巻ガール』は、語り手である哲夫と、そんな彼に突如できた新しい妹との、つかのまの関係を描いたものだ。哲夫の父の再婚相手である深雪には、連れ子がひとりいた。再婚のことは聞いていたものの、新しく妹になる涼子のことについてはずっと知らずにいた哲夫は、夏休みに家にやってきた涼子の、まずはそのガングロメイクに圧倒されてしまうわけだが、すでに高校二年になり、大学生になったら都会でひとり暮らしをすると決めていた哲夫は、せめて家にいる一年半のあいだは波風立てずにやっていこうと考えるだけの分別をもちあわせていた。

 二学期がはじまり、ガングロメイクも落とした涼子は、ごく普通の高校生として新しい生活になじんでいく。だが哲夫の父と深雪との結婚生活は、かならずしも順調というわけではなかった。いっぽうの涼子は、まるで哲夫を兄ではなくひとりの男として見なしているようなところがあり、哲夫はそんな彼女に引きずられるように涼子との逢瀬を重ねてしまう。

 この『竜巻ガール』と『旋風マザー』に二作は、まだ若い男性を語り手とする短編であり、いずれも語り手は誠実で真面目、少なくとも世間の常識からはずれないような生活を求める人物として書かれている。そんな語り手の生活のなかに、自分とはまったく価値観の異なる女性――それこそ、田舎にガングロという違和感の権化のような人物が入り込んできて、それまでの生活をひっかき回してしまう、というのが物語の大筋である。前者であれば涼子が、後者であれば藤村絵美という女性がそれにあたる。『旋風マザー』において、父が行方不明ということを知った絵美は、なぜか赤の他人であるはずの広幸にあれこれと世話をやき、あまつさえ父親捜索の手助けまでしようと願い出るのだが、そもそも広幸の父親は、インチキ商売で騙した相手から逃れるため、虚偽の失踪届けを出して家のなかに隠れているだけのことなのだ。

 語り手にとってはまさに謎の存在である女性――本書にミステリーとしての要素があるとすれば、まさに涼子や絵美、あるいは広幸の実の母である静江といった女性の言動が、どのような意図によるものなのか、という点につきる。そしてそういう意味で、語り手が若い男であるというのはこのうえないチョイスでもある。なぜなら、男というのは綺麗な女性に対して、なかなか冷静な判断がつけられないという、まさに男であるがゆえの性が、物事の真実をじつに巧妙に隠蔽してくれるからである。

 いっぽうの『渦潮ウーマン』と『霧中ワイフ』の二作は、語り手が女性、それも三十代後半の女性である。前者の高嶋由布子は中堅アパレル会社のモデルハウス担当員として働いているが、仕事は堅実ながらいまだに結婚相手が見つからず、後者の藤井今日子は中国人の朱黄河と結婚はしたが、スポーツクラブで太極拳を教えている夫はその稼ぎのすべてを中国の実家に送っており、生活はけっして豊かなものとは言えない。そしてこの二作に共通するのは、いずれも語り手たちの前に、にわかに現実味を帯びてくるもうひとつの家族の存在が、彼女たちのかぎりない疑心暗鬼をかきたてていく、という展開である。ここでは、しだいに若さを失い、それとともにさまざまな可能性も失いつつあるという女性としての閉塞感、自分に女性としての価値が急速になくなっていくことへのかぎりない焦りが、物語の真実から読者の目をそらす役割をはたしている。

 登場人物たちの家庭環境は、いずれもけっして良いとは言えないものがある。たとえば、『竜巻ガール』の深雪はおよそ生活能力のない、その場その場の楽しみだけを追求していくような女であり、涼子はそんな母の生活に振り回されている。離婚、再婚、不倫など、なかなかに複雑な家庭事情をかかえてはいるが、それでも彼女らは、自分たちなりに幸せになりたいという欲望をもち、その欲望をかなえるために努力していくことをやめようとはしない。彼女らの言動は、少なからず周囲にいる人たちを傷つけはする。にもかかわらず、そんな彼女たちのことを憎めないのは、そうするだけの理由をミステリーに対する謎解きという形で、読者に提示してくれるからに他ならない。そしてその謎解きが、たんなる打算的なものだけでなく、人としての心、感情的な部分にも及んでいるからこそのものである。

 人は幸せになりたいと願う。そのためには嘘もつくし、そうしなければならないのであれば、他人を傷つけでも欲望をかなえようとする。だが同時に、自分の本当の気持ちを大切にしたいし、自分の内にある感情に対してまで嘘をつきたくはない。私は男であって、女の気持ちというものを推し量ることは難しいのだが、男の矜持や論理といったものではなかなか割り切ることのできない女性に、男はけっきょくのところ手玉に取られるばかりであるということを、あらためて思い知らされる作品が、本書である。そして、もしそんな不可解な女性の言動を「可愛い」と思えるのであれば、それは読者がいい大人であるという、ひとつの証拠となるに違いない。(2008.07.04)

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