【論創社】
『知りすぎた男』

G・K・チェスタトン著/井伊順彦訳 



 たとえば、ビジネス書の話をしてみよう。とある会社の経営者が、とある出版社のビジネス書を読み、その内容に触発されてただちに行動に移した。断固たる態度で社内の構造改革を実施し、それまでの仕組みにとらわれない組織編制を行ない、そのために少なくない投資をした結果として、その会社はこれまで以上に業績をのばすことに成功した。その経営者にとって、そのとき出会ったビジネス書が、いわば座右の書として彼の心に残る本となったことは想像に難くない。だが、彼の会社が業績をのばすことができたのは、そのビジネス書に書かれた知識のおかげと言えるだろうか。

 彼にしてみれば、そのビジネス書に書かれていたことを実行したにすぎないのかもしれない。だが、ビジネス書に書かれていることはあくまで知識でしかない。そして知識というものは、ただ知っているというだけでは何の役にも立たないものだ。その経営者の成功は、あくまで彼の起こした行動の結果であって、ビジネス書で得た知識が自分の会社を変えていくに違いないという信念の賜物でもある。どれだけ多くの知識を有していても、そこから何らかの行動を起こしていかないかぎり、知識はたんなる知識でしかなく、むしろそうした数々の知識が、逆にその人の行動を縛りつけてしまうということにもなりかねない。

「わたしの知ることこそ知る価値なしだ。どれも物事のいやな面ばかりでね。言うに言われぬ事情、卑しい動機、政治という名の賄賂や脅迫。――(中略)――そんなのは大した自慢にもならんから、街の若者たちに得意顔で語って聞かせるつもりもない」

(『底なしの井戸』より)

 真実と事実とは似て異なるものだ。数多くの事実のなかから、自分にとって意味のあるものを選びとることで、その事実がその人にとっての「真実」となるのであるとすれば、はたしてホーン・フィッシャーにとっての「真実」とはどのような形をしていたのだろうか。今回紹介する本書『知りすぎた男』は、ホーン・フィッシャーという名のイギリス人が探偵役となって、身のまわりで起こる殺人事件などの不可解な事件の真相に迫っていくという八つの短編に、読みきり風の二つの短編を加えた十編の作品集であるが、いずれの短編においても、ミステリーとしての謎解きにつきものである推理の過程については、さほど大きな意味はない。むしろ重要なのは、探偵役であるホーン・フィッシャーによって明らかにされる真相がどのような意味をもちえるのか、そしてその真相をどのようにとり扱っていくべきなのか、という点にこそある。そしてそういう意味では、本書はミステリーという名を借りた社会風刺、政治批判といった社会派小説としての一面を強くもっていると言うことができる。

 長身で色白、常にどこか物憂げな態度をとることが多いホーン・フィッシャーは、ほぼあらゆる方面の事柄に通じており、誰に対しても話題を合わせることができる博識と、政治家や大臣といった要職に就いている親戚を数多くもつイギリス名家の出身でもある。各短編における事件の推理に関しても、彼のその博識――とくに、政治関係における「知りすぎている」ほど何もかもを知っているという知識が少なからず鍵となり、その隠された真相へと導くことが多いのだが、そうやって真相にたどりつくことで、たとえば殺人事件の犯人が、それ相応の罰を受けることになるかといえば、けっしてそうした展開にはならない。なぜなら、彼の推理によって導き出される真犯人は、いずれもイギリスという国においては重要人物であり、彼の犯罪を公にすることが、下手をすると国の存続を左右することになりかねないことを、他ならぬホーン・フィッシャー自身が「知りすぎている」からに他ならない。

 イギリスの上流階級が集うような社交場やクラブといった、いかにも上品な場所が物語の舞台となることが多い本書において、ホーン・フィッシャーの推理は、その下に隠されている血なまぐさく、あくどくて卑しい人間の負の一面をあらわにしていく役目をはたす。だが彼は、そうした腐敗した一面をあらわにしながらも、その事実に対して何もしないばかりか、まるで大局のために個人的な犯罪そのものには目をつぶるという態度を見せる。こうした彼の、釣りでこのうえない大物を釣り上げておきながら、あえて川に投げ返してしまうという行動が、いったいどのような心境によって培われてきたのか、という点こそが、本書の短編をつうじて浮かび上がってくる大きな謎だと言える。

 本書を読み進めていくとわかってくるのだが、彼は国のためとはいえ、犯罪者を見逃さなければならないという大きな矛盾に少なからず苦悩しているし、かつてはそうした腐敗をただそうと行動し、しかし挫折せざるを得なかったという過去もあきらかになってくる。多くのことを知っていながら、まさにその「知りすぎている」がゆえに何もできずにいるホーン・フィッシャー ――そんなふうに彼の役どころをあてはめたとき、本書におけるもうひとりの主要人物であるハロルド・マーチもまた、たんなるワトスン役というよりは、ホーン・フィッシャーの対極に位置する人物――新進気鋭の政治記者として自国の未来を憂い、なんとかしたいという熱意溢れる若者としての一面が強調されることになる。

 じっさい、本書のなかでハロルドは、ホーン・フィッシャーの推理においてほとんど何の貢献もしていないことがほとんどだ。ジャック・フットレルの『思考機械の事件簿1』におけるハッチンソン・ハッチのように、探偵の手足となって情報収集をするようなこともない。にもかかわらず、ホーン・フィッシャーがハロルドという人物との友情をもちつづけ、敬意を示しさえするのは、さまざまな意味で自身の対極をなす存在であるからだ。そしてそんなハロルドの存在は、しだいにホーン・フィッシャーにも影響をおよぼしていく。そのあたりの思いについては、じつはホーン・フィッシャーの事件簿とは直接関係ない短編のひとつである『煙の庭』の、以下の文章のなかにこそ如実に表われているのではないか、と個人的には考えている。

 なかに入る前に、外にある様々なものの存在を忘れないでほしい。ほかならぬきみ自身の財産として。つまり、広々とした空、目立たぬ美徳、清らかで強いもの――風のような――などだ。いいかな、なんだかんだ言っても、こういうものには真実味があるんだ。

 イギリス国内政治の腐敗ぶりや英国主義の傲慢さ、第一次大戦前と思われる当時の複雑な国際情勢などが、その推理の裏から垣間見える本書は、謎解きのダイナミズムこそ乏しいものの、抑制の効いた文章のなかに巧みに人々の感情を織り込ませることに長けた渋さがある。ハロルドと知り合った「知りすぎた男」が、いくつもの事件の真相を見抜いていく過程を経て、彼なりに導き出したひとつの決着とはどのようなものなのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.02.05)

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