【角川書店】
『トンコ』

雀野日名子著 
第15回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作 

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 「人間観察」という言葉を、ときどき耳にする。私の知っているかぎりでは、たとえば趣味の一環であったり、あるいは何らかの文筆業にたずさわっている人たちが、執筆のネタ探しとして行なうものだったりするのだが、この「人間観察」という行為、口にする人たちがどこまで本気で言っているのかはわからないものの、少なくとも「人間観察」を行なう自分もまた、観察されるべき「人間」のひとりであることを考えたとき、それは私たちが考える以上に奥深いものを含んでいるのではないか、とふと思うことがある。

 人間とは、私たちにとってはもっともありふれた生き物だ。その日常においてたったひとりの人間とも会わないことなど滅多にないし、世界じゅうどこに行ってもかならずどこかで人の姿を見かけたりする。そしてありふれたものというのは、容易に私たちの意識から抜け落ちてしまうものでもある。そのありふれた「人間」という生き物を「観察」するということは、人間を意識して客観視ということであり、そうすることによって、ふだん意識していなかったこと――目の前にありながら見えていなかった事柄に、あらためて光をあてることにもなる。

 毎日のように繰り返し目にしていて、あたり前のように存在する事物に対して、あらたな視点をもって観察するというのは、私たちが考える以上に難しい。だが、たとえば私たちが珍しい動物を目にしたときに、その容姿や行動の珍妙さを不思議がるのと同じように、その動物の視点から人間を眺めたときに、私たちがとっている行動のひとつひとつが、あるいはとんでもなく奇妙で不可解なものとしてその目に映っているかもしれない、という想像力をはたらかせることはできる。本書『トンコ』は、表題作をふくむ三つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品においても、その中心となって物語を進めていく主体として、人間ではない何かの存在を置いているというひとつの特長がある。

 表題作でもある『トンコ』でいえば、物語の主体となっているのは一匹の豚である。生後六ヶ月のメスで、体重百キロ強。食用肉として養豚場から出荷され、高速道路を搬送中にそのトラックが横転、脱走することになった豚の顛末を書いたこの作品の場合、彼女はトラックから逃げ出した瞬間から「トンコ」という名称をあたえられ、他の豚とは一線を画する存在となるわけだが、書かれていくのは基本的に「トンコ」が遭遇した出来事の客観的なシーンであって、彼女が何を考えているのかといった思考はいっさい出てこない。そもそも、ただの豚でしかない「トンコ」が人間と同じような思考を有するということ自体、ありえるはずもなく、そういう意味において本書は動物を擬人化することで展開する物語ではないということになるのだが、そのいっぽうで私たちは、おそらく「トンコ」が有していると思われる記憶の部分に、少なからず戸惑うことになる。

 物語のなかで、「トンコ」はしばしば過去を思い出す。それは、養豚所にいたころの記憶であり、またともに育った兄弟姉妹たちの記憶でもあるのだが、その記憶において、兄弟豚たちが次々と養豚所から姿を消していったことを認識していながら、同時に彼女は、まるでその消えた兄弟たちがすぐそばに存在しているかのように感じ取っている。彼女の耳に届いてくる仲間の鳴き声や体臭――作中で何度も繰り返される独特の鳴き声が、はたして現実のものなのか、あるいは記憶のなかのものでしかないのか、「トンコ」には判別できていない。それゆえに、そうした架空の鳴き声や体臭に突き動かされていく彼女の行動は滑稽であると同時に、哀愁ただようものとして読者をとらえていく。

 小説を読む私たち読者は、言われるまでもなく人間であって、そうである以上、私たちは人間としての感覚を前提として物語を読み進めていくことになる。だが『トンコ』の場合、物語の主体はあくまで豚であり、しかも擬人化という手法で読者側への歩み寄りがなされていないがゆえに、彼女のとらえる世界との差異に妙だなという違和感を覚えることになる。私たちがあたり前のものとして認識している、人間としてのものの見方を、まったく別の視点を共有させることによって一度リセットしてしまおうという試みは、本書全体を貫く大きなテーマとなっていて、たとえば『ぞんび団地』の場合、ホラーの代名詞ともいうべきゾンビが登場していながら、それらの存在を小学生であるあっちゃんの主観を介することで、彼らがけっしてケンカしたり自分を追い出そうとしたりしない、理想の家族像としてとらえてしまうという、価値観の変換が生じている。

 鼻から下がガイコツになっているおばちゃんは、いつでも歯を見せて笑っています。笑顔の絶えないおばちゃんです。

(『ぞんび団地』より)

 腐敗しつつある肉体のグロテスクな描写が、あっちゃんのフィルターを通すとしばしばユーモア溢れる描写に変わってしまうという違和感は、私たちの感覚からすれば異様なものであるのだが、その「異様な」視点をいったん共有してしまうと、今度は私たちにとってありふれた存在であるはずの人間の言動が、とても奇妙なものとして映ったり、あるいは恐ろしいものとして感じられたりする。これは『トンコ』における、豚の視点から人間を見たときの奇怪さにも通じるものがあるのだが、これが『黙契』となると、同じ人間で、しかも血のつながった兄妹であるはずのふたりのあいだで、それぞれに対する違和感が膨れ上がっていくという展開となり、よく知っているはずの人物の、まったく知らなかった側面と対峙したときの違和感という形で表現されることになる。おそらく本書の三作のなかでは、この『黙契』がもっともホラーらしい作品だと言うことができるのだが、著者が目指しているものは、私たちが「ホラー」という枠でくくってしまう以前に感じとっているはずの違和感の部分を、どのように表現していくかという点にこそある。

 何があたり前で何が異質なものかという判断は、多分に当人の主観に影響されるところがある。そしてそれは、同時に当人が認識している世界の均衡をたもつためのフィルターでもある。冒頭で書いた「人間観察」の例は、自分が世界に対してかけているフィルターをはずしてみるという行為に等しいものがあるのだが、そうした場合に、はたしてどのような世界をまのあたりにすることになるのかは、当人にしかわからないものだ。あるいは、そのわからなさという点こそが、私たちが感じうる最大の恐怖なのかもしれない。(2010.01.14)

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