【集英社】
『となり町戦争』

三崎亜記著 
第17回小説すばる新人賞受賞作 



 最近の例でいうなら、そう、平成17年4月25日に発生したJR福知山線での脱線事故になるだろうか。
 結果的に107人もの死者を出したこの大惨事について、テレビや新聞では連日連夜こぞってその様子をトップ記事として報道し、その余波は事故当時のJR社員の対応の問題や、今後の安全確保の問題といった形で現在もなお報道人たちをにぎわせている。時事についてはけっしてアンテナが広いわけでもない私も、否応なく知ることになった事故でもある。そして、たしかにそれは大きな事故であり、亡くなった被害者の家族や、たとえ死ぬことはなかったとしても、その事故に巻き込まれた方々の心痛や恐怖、怒り、やるせなさや無力感については、ひとりの人間として察してあまりあるものがあるのだが、今回の事故報道を目にして私が思い出したのは、横山秀夫の小説『クライマーズ・ハイ』での、ある回想シーンである。

 1985年8月に起きた日航ジャンボ機墜落事故を題材にしたこの作品のなかで、とある病院のロビーに置かれたテレビでこの事故の被害者家族の悲しむ姿を映したニュースを見ていた老婆が、事故にあった人たちを羨むというシーンは、どんな言葉よりも人間の命の価値がけっして平等ではないという事実を物語るものであったが、その事故を今回の脱線事故に置きかえてみたとき、事故に直接関係していない私たちの大部分が、おそらくその老婆と似たり寄ったりの心境であることに気がつくはずである。ようするに、たしかなリアルの出来事として――たとえば、自分たちのふだん利用している電車でも、同じことが起きるかもしれない、という想像力をたしかなリアルなものとして感じとるのは難しいし、また本当にリアルを感じることがあるとすれば、それは自分が似たような事故に巻き込まれる以外にありえない、ということである。

 今回紹介する本書『となり町戦争』は、まさにそのタイトルのとおり自分たちの住む町が突然、となり町と戦争をはじめることになる、という話である。だが、本書を読み終えて私がまず思ったのは、このタイトルの真の意味は「となり町との戦争」ではなく、「となり町での戦争」ではなかったか、ということだった。それは、たしかに町どおしがお互いに死者を出すような戦争をしていながら、自ら武器をとり、自らの意思で敵を殺したり敵から攻撃を受けたりする、私たちが「戦争」という言葉からなかば条件反射的に想像する血なまぐさく陰惨なイメージとは、あまりにもかけ離れた状態に置かれた人間の物語でもある。

 今僕が出遭っている戦いは、そのどちらにもカテゴライズされない、予測もしなかった形で僕を巻き込んでいる。この複雑化した社会の中で、戦争は、絶対悪としてでもなく、美化された形でもない、まったく違う形を持ち出したのではないか。

 ある日、まるで行政通知のごとく通達された「となり町との戦争のお知らせ」。一人称の語り手である北原修路は、この舞坂町に移り住んで二年になるごく普通の一般市民だったが、とくにそのことで彼の生活に何らかの変化が生じるわけでもなく、いつもと変わらない日常がつづいていくという状況に、なんとなく当惑の思いをいだいていた。その当惑は、彼が戦争というものの「リアル」をまるで実感できない、という一点に尽きるのだが、その徹底したリアル感の欠如は、後に彼が偵察業務という形で、さらにはとなり町のスパイとして舞坂町の女性職員である香西と夫婦という形で潜入することで、今回の戦争により深くかかわることになっても変わらない。彼の目にも、そして私たち読者の目にも、戦争の血なまぐささはじつに巧妙に隠されている。私たちが感じ取ることができるのは、町の広報に載せられた戦死者の数であり、地域住民に開かれる説明会のまるで緊迫感のない様子であり、まるで住民票を請求するかのごとく、きわめて事務的に進められていく一種の「仕事」としての「戦争」の形だけなのだ。

 そういう意味で、本書が表現する戦争とはいつまで経っても「対岸の火事」としての意味以上のものを持つことはない。遠くの国で戦争が起こり、何百という人々が犠牲になったというニュースを聞いても、その事実にたしかなリアルをもつことができないのと同じであり、また誰がその町の町長になったところで、表面上は何ら変化が生じないのと同じことなのだ。本書の冒頭で、戦争開始の前日に起こった通り魔殺人事件が、その事件の関係者でない人間にとってしょせんは他人事でしかない、というのと同レベルのものとして、本書の戦争は語られていく。

 自分たちのあずかり知らないところで決定され、開始され、そして知らないうちに終結してしまった戦争――はたしてどちらが勝ち、どちらが負けたのか、そしてそのことで何がどう変わっていったのかもまるっきり見えてこないなかで、彼が唯一たしかなリアルとして感じようとした香西は、はたして彼にとって何を意味するものだったのか。舞坂町の公務員として、あくまで業務を遂行するように「戦争」を滞りなく進めていこうとする彼女が、いっけんすると自分らしい感情をもたない、ただ流されていくだけの女性のように見えながら、その奥にそうした感情さえも凌駕するような一途さ、意志の強さを感じさせるのはなぜなのか。その答えはぜひ本書を読んでおのおのがたしかめてほしいのだが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、自分もふくめた人の死というものを、あくまで個人のものとして特別視することにこだわるのか、それとももっと普遍的な視野に立って――どんな理不尽な死であっても、それこそ死亡者数の数としてとらえていくか、ということに関して、人と人とのあいだには絶望的な相違が存在することがある、ということである。

 そしてそういう意味で香西と、北原の職場の上司で、かつて外国で兵士として戦争に参加した経緯をもつ「主任」とは、立場こそ違え同じ種類の人間だったのだということに、私たちは気づくことになる。

 JR福知山線での脱線事故は悲惨な事件であることに間違いはないが、ではその事故の直接の関係者でもない、ちっぽけな人間にすぎない私たちが、もし以前に何らかの行動を起こしていれば、その悲惨な事故を回避させることができたのかと言えば、ほぼ100パーセント不可能だと断言することになるだろう。湾岸戦争のときも、阪神大震災のときも、某宗教団体の起こしたサリン事件のときも、第三者でしかない私たちが唯一できるのは、自分の意思で「変わらぬ日常」を生きることだけである。そしてそれは同時に、もし万が一にも理不尽な事件や事故に巻き込まれたとしても、それを受け入れて生きるだけだと認めることでもあるのだ。それは、けっして人として弱いということではない。(2005.05.25)

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