【集英社】
『東京シック・ブルース』

芦原すなお著 



 ときどき、思うことがある。私がいま、この東京という地に居つづけているのは、はたして正しいことなのだろうか、と。

 私の生まれ故郷は北陸のある温泉街だが、高校卒業後、東京の私立大学へ通うために上京した。将来のことに関して、具体的なビジョンがあったわけではない。小説が好きだった私は、人生でもっとも自由な時間だと言われている大学の四年間で、もっと多くの本に触れられればいいな、という、なんとも曖昧模糊とした考えから、文学部を受験して合格し、晴れて文学部生として勉学にはげむことになった。だがそれ以上に、もっと大きな世界を見てみたい、もっと多くの人たちと出会い、自分の力を試してみたいという、どこかの小説にでもありそうな欲求があったのも事実だ。そしてそのためには、一度両親の元からどうしても離れる必要があった。両親の息子としてではなく、まぎれもない自分という人間だけを見てくれる場所――それが私にとっての東京だったように思う。

 今にして思えば、それは一種の「自分探し」のようなものだった。だが、それから東京の会社に就職することになり、けっきょく今もなおこの東京にとどまりつづけているわけであるが、それだけの時間をかけて、自分がどんな人間なのか、ということがわかったかと言えば、答えはノーだ。むしろ、ますますわからなくなってしまった、と言ってもいいかもしれない。そしてその瞬間、自分が東京に居つづける理由は、もうどこにもないのだ、という事実に気がついた。だからこそ、思わざるを得ないのだ。自分がここにいるのは、はたして自然なことなのか、と。

 本書『東京シック・ブルース』に登場する葉山容一もまた、私と同じように地方から東京の大学にやってきた青年だ。時代は一九六〇年代の末、容一が入学した大学では、学生たちによる自治会が授業を無理やり潰してクラス討論をはじめたり、キャンパスの中で声高に日本帝国主義と、それに加担している大学当局の体制を批判したり、学費や試験決行をめぐってデモ隊と機動隊が衝突を繰り返したりしていた。それは、ただなんとなくドイツ文学を勉強したいと考え、ただなんとなく大学に入った容一にとって、これまでの人生にはなかった刺激的かつ挑発的な体験であり、何より自分自身というものをあらためて考えさせられる時空間であった。物語は、そんな容一が大学での生活を通じていろいろな人と出会い、その感情に振りまわされたり、恋に落ちたり、人間関係に思い悩んだりしながら成長していく様子を、あくまで素朴なタッチで描いている。

 本書を読んでいてひとつだけ確信したことがあるとすれば、容一が通う大学は、私がかつて通った大学と同一のものである、ということだ。つまり容一は、私のずっと上の同窓会員、ということになるのだろうか。それはそれだけ本書が、その舞台となる大学やその周辺の雰囲気をうまくつかみ、文章として表現できている証拠に他ならないのだが、書評を書く立場としては、感情移入が深くなり過ぎるという点で、多少感情的になってしまうかもしれない。私が入学した頃は、さすがにヘルメット姿や機動隊の姿を見るようなことはなかったが、入学式のときは、なかば騙されるにして自治会の集会に連れていかれたし、休み時間になるたびに自治会の人間がいろいろな事柄に「断固反対」を叫び、教室にやってきてビラを配ったりしていたし、全学ストライキなんてのも何度かおこなわれたりした。彼らの主張はたしかに間違ってはいない。それは頭ではわかるのだが、心のもっと深いところで、どこか共感できない部分があった。多少後ろめたいものを感じながらも、彼らと一線を置きつづけるうちに、自治会はキャンパスの風物詩的な存在と化していったが、本書には彼らへの違和感に対する答えが書かれている。

 お前はこれからいろんな人間に出会って、いろんな思想に触れるだろう。だが、いいかい、思想というものはしばしば強制的になる。――(中略)――それは、やっぱり間違っているのだ。思想は常に断片的で、部分的なものでしかない。全体は自然なんだ。だから、いつでも自然に立ち返って、自分をかえりみるようにせねばならない。

 容一が上京する前日、父はこんなふうに語るのだが、これこそが本書の最大のテーマだと言うことができるだろう。勉学をする場所である大学に吹き荒れる学生運動の嵐、本来勉学に励む身であるはずの自治会の生徒――本書はそんな「不自然」の雰囲気に覆われている。そして不自然なのは、何も場所や団体ばかりではない。たとえば、文学への欲求から会社も妻も捨てて大学に入りなおした向井礼一郎や、医者の娘としての自分を拒否し、絶望的な想いとともに自治会の活動をつづける武田倫子、離婚した母を嫌い、それゆえに女としての自分をも嫌って女子大から今の大学に受験しなおした篠崎葵、そして他人を傷つけまいとするあまり、自分自身を殺しつづけている樒(きしみ)一 ――容一のまわりには、自分の意思を貫くために誰かを傷つけ、それゆえに自分を許すことができなくなっている「不自然」な状態に陥ってしまった人たちの姿がある。

 人間は誰しも幸福になりたいと願うし、後悔やつらい思いなどしたくはない。だが、それにもかかわらず、人間は不幸に陥り、同じ過ちを繰り返し、何度も後悔しつづける。「自然」でいること――それは、思想にとらわれるあまり自意識過剰となり、自分が特別であると思いこんでしまうこととは対極に位置する姿勢である。だが、人間は思考するがゆえに人間であるとも言える。人間はいろいろなことを思考するし、その活動をとめることはけっしてできはしない。私たちは、不幸に生きることを運命づけられた生き物なのか、なぜ人間は、こんなにも不条理なのか――本書のなかで向井が容一に対し、何度も「これは自然なことなのだろうか」と問いかけているが、それは今を生きる私たちすべてに対しての問いかけでもある。

 小説とはそもそも不自然なものだ。物語はすでに定められており、主人公はカッコ良く事件を解決してハッピーエンドを迎える。だが、本書のような青春小説は、けっしてスマートではない。登場人物は揃いも揃って不器用であり、ちょっとしたことですぐに思い悩んだりする。しかし、だからこそ読者は、その人間臭さに共感し、ついつい自分の姿を重ね合わせようとする。そういう意味で、本書はまさに、まぎれもない人間の、真実の姿を描き出したものなのだ。(2000.12.26)

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