【文藝春秋】
『時が滲む朝』

楊逸著 
第139回芥川賞受賞作 



 たとえば、なぜ働くのかと問われれば、それは生活のためであり、自分が生きていくため、と答えることになるのだが、その答えに納得しているのかと言えば、心のどこかでそんな生き方に対して「それでいいのか」という思いがわだかまっていたりするものでもある。誰もが自分の好きなこと、やりたいことを仕事にすることができればいいのだろうが、それでは社会は成り立っていかない。口にする食べ物ひとつとってみても、それが作られる過程において大勢の人の手が介していて、そういう意味では、自分の労働は今の社会が成り立つために必要なものなのだ、と理屈ではわかっている。だが、理屈でわかるということと、それに納得することとのあいだには、大きな隔たりがあるものだ。とくに、若い人の心においては。

 世の中はけっして平等でもなければ、正しいことがかならずしも報われるというわけでもない。交通違反でキップを切られれば、自分が悪いとわかっていながらも、同時に「なぜ自分だけが」と思ってしまうのが人間である。ほかにも悪いことをしているヤツは大勢いて、奴らは何ら罰されていないのに、と。あまり良い例えではないかもしれないが、そういう理不尽さ、社会の不正に対して納得したくない、ただ黙って受け入れるなんて御免だという反抗心は、若い人であれば程度の差こそあれ、誰もが一度は心に抱く感情であり、だからこそそこには青春の要素が溢れている。

 今回紹介する本書『時が滲む朝』は、一九八〇年から九〇年にかけての中国を舞台とする作品であり、また中国の民主化運動と天安門事件とも深くかかわってくる物語であるが、そうした時代的・政治的背景よりも、そこにひとりの人間としてかかわることになった登場人物たちの、若さゆえに感じやすく、また激しく揺れ動く心情と、そうした苦味を受け入れて成長する姿を描いた、純粋な青春小説というとらえかたが合っていると言える。

 物語は大きく、主人公の梁浩遠が中国に在住している時期と、日本に在住している時期とで分けることができ、その転換点として「天安門事件」が置かれているという構造になっている。中国北西部の貧しい地域で生まれ育った浩遠は、高校で知り合った謝志強とともに大学統一試験を受け、秦漢大学からの合格通知を得た。十人にひとりという狭き門をくぐりぬけた彼らは、当初は純粋に勉学することへの喜びを噛みしめていたが、田舎にいては知ることのなかったさまざまな思想に触れるにつれ、しだいに中国民主化運動にかかわるようになり、集会やデモ行進、ハンストといった運動にものめりこんでいくことになる。

 中国の政治や官僚は、共産党の一党支配のせいで堕落し、それを正すためには国を民主化し選挙制度を導入、二大政党による政治を実現させるしかない――まるで、日本における六〇年安保時代を髣髴とさせるような学生運動の気運のなかに関わっていく浩遠は、本来はごく真面目な青年であったが、だからこそ融通が利かず、正しいと信じられていることがなぜ実現しないのか、そればかりか、民衆にさえ受け入れられないのか、と思い悩むことになる。それは、ともすると読み手が気恥ずかしくなるような、純粋で、それゆえに世間知らずともいうべきまっすぐな心であるのだが、大学に合格したときの心の興奮や、新しい生活への期待といった感情を、ともするとあけっぴろげに表現したり、またアメリカや日本のことを腐敗した資本主義として警戒しながらも、そこで流通している恋愛の歌をはじめて耳にしたときの興奮を抑え切れなかったりといった彼らの言動は、ともすると私たち読み手の青春時代とストレートにつながってくるものがあり、国の違いといったものをあまり意識させなくするものさえある。

「さぁ、腐食というのかな? 愛って感情はそんなにいけないの? 国を愛する、なら言って良いのに、人を愛してはいけないのかね?」志強はうつむいて呟いた。
「本当だね、なんでいけないのかね?」志強の思わぬ反応に、浩遠も戸惑った。

 ごく狭い世界のことしか知らなかった人たちが、一気に広い世界のことを知るようになったときに感じる大きなギャップやカルチャーショックによって、その心を大きく揺り動かされる。しかし、真に国のためという高潔な精神やその理想と、じっさいの現実を生きる人たちとのあいだにある差の大きさに戸惑い、苦悩する姿に、尾崎豊の歌を重ね合わせていく本書は、ともするとあからさまで、それゆえのクサさがあるのはたしかであるが、この理想と現実とのギャップは、人が人であり、人として成長する過程において誰もが通らなければならない共通のものであり、そこに国や民族の差は関係ない。天安門事件ののち、せっかく苦労した入った大学から退学処分を受け、逃げるようにして日本に移り住み、そこで結婚して家庭をもった浩遠は、そのわだかまりに対して忘れることも、捨て去ることもできない人物として書かれている。そしてそれは、私たちが毎日の生活の繰り返しのなかで、忘れ去り、あるいは捨て去ってしまったものでもある。そうした青春を自身の過去と重ね合わせることができる人たちこそが、本書に心を打つことになるのだろう。

 時は流れ、時代は移り変わり、文化大革命の悪夢は過去のものとなり、オリンピックが北京で開催されるような新しい時代がやってくる。だが、かつて北京大学の学生だった浩遠の父がたどったのと同じような道を、知らず知らす浩遠もまた歩んでいる。大学時代にともに「二狼」と呼ばれた友人の志強は、中国で会社を起こし、師と仰いだ教授はヨーロッパに亡命して行方が追えない。この世に変わらないものなどなく、それは人の心であっても例外ではない。だが、かつて感じた戸惑いや苦悩、革命のためにと行動してきたことすべてを、はたしてどのように受け止めるべきなのか――それは、人が成長するうえでけっして変わることのない、青春のクロニクルともいうべきものなのかもしれない。(2009.10.01)

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