【文藝春秋】
『時の渚』

笹本稜平著 
第18回サントリーミステリー大賞受賞作 



 ニュースや新聞で毎日のように報道される殺人や強盗といった凶悪な犯罪は、警察関係者でもないごく普通の一般人たる私たちにとっては、それが直接自身の身に降りかかってこないかぎり、しょせんは他人事でしかない情報のひとつとして処理されるものであるが、それでも私はときどき、こんなふうな「もし」を考えることがある。もし私が、これらの犯人と同じ境遇にあったとしたら――犯人と同じ両親をもち、犯人と同じ環境を生き、成長していったとしたら、私はこれらの犯人と同じように犯罪に手を染めることになっただろうか、と。

 そんなことはない、と信じたい。私という個人と彼らとは赤の他人であり、たとえ似たような立場にあったとしても、自分だったら犯罪をおかすようなことは考えられない、と。だがこうしたものの考え方は、しょせんは今の自分の立場を前提としたものであって、そもそも身を置くべき立場が異なっている以上、じつは何の根拠もない思い込みにすぎないと言わざるを得ない。これは人間の個性が先天的なものとして備わっているのか、あるいは後天的なものに影響を受けるものなのか、という問題にもつながってくることであるが、生まれ落ちた環境がその人間の人格形成にまったくの無関係だと言えないのであれば、けっきょくのところ私も犯罪者と同じ結果をたどっていたかもしれず、となれば、毎日のように起こる凶悪犯罪も、もし何かの歯車がかけちがっていたら、それは私自身の犯罪となっていたのかもしれない、と思ってしまうのだ。

 血縁関係というのは、当人が思っている以上に大きな作用をその人間におよぼす。過去に発狂して死んだ親戚がいた場合、もしかしたら自分も発狂するのではないか、というある種のぬぐいがたい恐怖は、血縁ならではのものだ。日本の近代文学がかかえていたテーマのひとつが、こうした血縁関係と自分という個のあいだの葛藤であるが、本書『時の渚』もまた、ある意味で似たようなテーマをあつかった作品だと言うことができる。

 もと警視庁捜査一課の刑事であり、今はしがない私立探偵の茜沢圭は、食道がんで余命半年と宣告されてホスピスに入った老人、松浦武三から35年前に生き別れた息子を捜し出してほしいと依頼される。極道だった頃に生まれたひとり息子で、母親は子どもを産んですぐに死亡、事件を起こして指名手配されていた松浦はやむなく、たまたま出会った見知らぬ女性に息子をあずけたのだという。
 同じ頃、刑事時代の上司にあたる真田警部から連絡を受け、女子高生殺人の重要容疑者とされる駒井昭伸の身辺を探る役目も請け負うことになる。この駒井昭伸こそ、三年前に西葛西でおこった駒井夫婦刺殺事件の第一容疑者として限りなくクロに近い立場にありながら、DNA鑑定によって犯人から除外された人物だった。そしてその西葛西の事件の犯人は、車で逃走中に茜沢の妻と息子をひき逃げで殺害していった犯人でもあるという意味で、茜沢にとって因縁浅からぬ関係があった。女子高生殺人の犯人と西葛西の刺殺事件の犯人がDNA鑑定で同一人物だと判明したことで、駒井昭伸の逮捕が一気に三年前の事件の決着にも結びつくかもしれない、という真田警部の配慮があっての人選だった。

 本書はこのように、行方不明のひとり息子を捜すという件と、駒井昭伸の逮捕に協力するという件の、ふたつの大きな事件があり、茜沢はその両方に同時進行で絡んでいくことになるのだが、いっけんするとまったくの無関係だと思われるこのふたつの件が、茜沢の調査によって突然大きな関係性をもつにいたるという展開のダイナミズムが、少なくとも本書の読みどころのひとつであることは間違いない。そして本書全編をとおして鍵となるのが、血縁関係という結びつきなのだ。

 血のつながりというものは、一度そのつながりのなかに生まれてしまった以上、けっして逃れることも否定することもできない因果な関係性をもつものである。そして本書のなかの登場人物は、じつにさまざまな、しかしけっして幸福とはいえない親子関係をかかえつづけている。自分の子どもを生まれた瞬間に放り出さざるをえなかった松浦老人、理不尽に奪われてしまった妻子に対する深い悔いが、今のなお心の底で燻りつづけている茜沢、そして、もしかしたら自分の両親を殺害したかもしれない駒井昭伸――むろん、西葛西の事件の犯人がほんとうに駒井昭伸なのか、彼のアリバイを強固に守っているDNA鑑定の壁は打ち崩されるのか、そして松浦武三のひとり息子とは誰なのか、といった謎の部分も読者を引きつけるには充分な魅力をそなえてはいるが、こと登場人物たちの血縁関係というものに目を向けたときに、茜沢が松浦のひとり息子を追って、35年前に赤ん坊を引き取った原田幸恵の過去を遡っていく調査の過程は、血のつながらない子どもとの親子関係がどのような結果を生むことになるのか、という本書の隠されたテーマへとつながるものでもある。

 DNA鑑定、血液型の法則、戸籍上の親戚関係、婚姻という法制度による男女の結びつきで認められる新しい家庭など、私たちは個人を否応なく決定づける多くの要素のなかで生きているが、茜沢の調査によってあきらかになる原田幸恵が築いていった夫婦関係、親子関係は、そうした必然的に結びつけられるあらゆるものから自由な立場にあった。そして、それゆえに彼らを強く結びつけていた唯一のものが、愛情と呼ばれるものであるという確信を得るにいたるのだが、本書のなかで茜沢とともに松浦武三の息子を捜し出すことは、ある意味で真の親子の愛情とは何なのかを指し示すものでもあることに、読者は気がつくことになる。そう、本書のなかでもっとも重要なのは、松浦老人の息子を捜し出すということでも、茜沢が犯人を見つけ出して過去に決着をつけることでもなく、松浦の息子が犯罪者となっているか、あるいは立派な大人に成長しているかということであり、その結果と結びついた「親子の愛情」の形にこそあるのだ。

 はたして、親子関係とはただ血がつながっている、DNAを受け継いでいるということだけで成り立つものなのか。昨今のニュースで自分の血のつながっているはずの子どもを虐待したり殺してしまったりする親の事件を耳にするたびに、親子のあいだに本当に必要なものは何なのか、ということを考えずにはいられなくなるのだが、DNAや血のつながりといったものを越えた、人間だからこそ抱くことのできる精神的な親子関係の、ひとつの理想の形が、本書のなかにはたしかにある。(2005.06.27)

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