【新潮社】
『楽園のカンヴァス』

原田マハ著 



 フランスの画家アンリ・ルソーが描いた最晩年の代表作「夢」――濃い緑の密林のなか、極彩色の花々や動物たちに囲まれた裸婦という構図のその絵は、私にとっても思い入れの深いものがある。といっても、私は絵画の方面に明るいわけではなく、また絵画の鑑賞を趣味としているわけでもない。私がその絵をよく知っているのは、それがある小説の表紙として使われていたからである。

 チリの女性作家イサベル・アジェンデの『エバ・ルーナ』――日本では国書刊行会が出版したその単行本の表紙がルソーの描いた「夢」であることを知ったのは、私がその小説を読み終えてだいぶ経ってからのことであるが、自身のなかに溢れてくる物語を次々と語って聞かせるエバ・ルーナの物語は、まるで南米のジャングルのように奔放な生命力に満ちたものであり、そのイメージと表紙カバーの絵が妙にしっくりくるものがあったことを、今でも思い出すことができる。

 私を読書への道に導く契機となった小説の、表紙を飾っていた絵画、という意味で、私とその絵とのあいだには、何か縁のようなものがあったのかもしれない。なにせ、今回紹介する本書『楽園のカンヴァス』の表紙にも、やはりルソーの「夢」が使われており、私は思わぬところでその絵と再会することになったのだから。そして、物語を突き動かしていく原動力としてその中心に鎮座しているのは、他ならぬアンリ・ルソーであり、彼の書いた大作「夢」である。

「夢」は、謎の多い作品だった。
 なぜ密林なのか。なぜこの女は裸で長椅子に寝そべっているのか。その指先は何を指しているのか。そもそも、ルソーが自分で名付けた「ヤドヴィカ」とは誰なのか。

 岡山の大原美術館で展示品の監視員を勤める早川織絵はある日、学芸課長の小宮川から呼び出しを受け、暁星新聞社文化事業部の高野という人物と引き合わされる。その席で彼が語ったのは、近く開催を企画しているアンリ・ルソーの大規模な展覧会のことだった。展覧会の目玉となる作品について、ヨーロッパ各地の美術館からルソーの作品の借り出しを交渉しているが、そのうちのひとつ、「夢」を所蔵するMoMA(ニューヨーク近代美術館)のチーフ・キュレーター、ティム・ブラウンが、貸し出し交渉の窓口として、早川織絵を名指しで指名している。ついては、ぜひ交渉の窓口に立って、ルソーの「夢」の貸し出し権獲得のために力を貸してほしい――

 こうして早川織絵の、「一介の監視員」にしてはあまりにも意想外な経歴と過去が明らかになるところからはじまる本書であるが、物語はその後、彼女とティム・ブラウンとの関係を探るかのように、過去のある出来事へと遡っていく。結論から先に言えば、ふたりは過去に一度、顔を合わせる機会があった。だが、その邂逅はけっしてロマンティックなものではなかった。なぜならふたりはその時、伝説の絵画コレクターとして、その名前だけは知られているコンラート・バイラー所有のある未公開絵画について、その真偽を見極めるための鑑定勝負の相手となっていたからである。

 ルソーの大作「夢」とほぼ同じ構図をもつ、もうひとつの「夢」とも言うべき謎の絵画の存在、勝ったほうにその絵画の「取り扱い権利」の譲渡、つまりタダでくれてやるというバイラーの意図、その絵画の取得をめぐって暗躍している美術関係者たち、そして今なお画家としての評価が定まらず、「日曜画家」と揶揄されることすらあるというアンリ・ルソーの過去が書かれている、たった一冊の書物――本書を読んでいくと、そこにいかに多くの魅力的な謎が秘められているかということに驚かされるが、その魅力は、そのままアンリ・ルソーという画家のもつ魅力でもある。四十歳にして絵画を描きはじめたものの、まともな技法すらマスターしていない「子どものいたずら書き」だと嘲笑されつづけ、生前はまったく評価されなかったという不遇の画家、しかしそのいっぽうで、ピカソをはじめとするシュルレアリスムに多大な影響をあたえたという見方が脚光を浴び、織絵やティムのような熱心な研究者が存在するという、このなんとも不思議な画家をめぐる本書は、当時のパリを席巻した、息詰まるような斬新な芸術が生み出されていった「祝祭の時代」を知るという意味でも意義深いものがあるのはたしかであるが、それ以上に私たち読者が惹きつけられるのは、アンリ・ルソーとその研究者という、時代の異なる者たちを結びつける共通の要素としての「情熱」だ。

 本書の中心にはアンリ・ルソーがいると上述したが、物語の舞台となる時代において、彼が登場人物として直接出てくるわけではない。彼らがルソーと触れることができるのは、残された絵画と、バイラーの手にある、史実なのか創作なのかもわからない書物を通してのみである。だが、何か抑えがたい情熱に突き動かされるように、ただひたすら絵画に打ち込んでいる画家ルソー ――それこそ、絵の具を買う代金にさえ苦労するような生活でありながら、それでも絵を描くということを止められなかった彼の姿には、どこかしら私たちの心を打つものがある。

 本書の物語としての構造を見てみると、このルソーの愚直な情熱を基点として、それに同調するベクトルと反発するベクトルについて、かなり意図して書かれている部分がある。同調するベクトルを代表するのは、言うまでもなく織絵とティムのふたりであり、反発するベクトル側にいる者として、ルソーの未公開絵画をめぐって暗躍する人々の存在がある。そして前者が、自身のいだく情熱のために身を滅ぼすことも厭わないような、ある意味で愚かな人たちであるのに対して、後者はあくまで打算や金銭、あるいは栄誉といったきわめて俗なもののために動く人たちというふうに、わかりやすい色分けができているのだ。

 私たちはこの一連の物語をとおして、そこに一貫して流れているパッション――情熱への憧れを掻き立てられずにはいられない。生前に画家として評価されなかったルソーの生き方に、憐憫や嘲笑よりも、むしろ賞賛の念すら起こってくるというのは、まさに本書のもつ物語構造の勝利だ。さらに言えば、この物語には時代を超えて受け継がれていく情熱というテーマもある。カンヴァスに叩きつけられた情熱が、作者の死んだのちもなおそれを鑑賞する多くの人たちに、なんらかの心の動きを喚起する――それこそがまさに芸術というものであり、永遠を生きるという壮大な「夢」でもある。

「さあ、描いてちょうだい。あたしは、いまから、永遠を生きることにしたの」

 本書は絵画という芸術の面白さ、奥深さを書いたものであるが、その以上に、その芸術に心奪われ、それにすべてを捧げて生きる人々のゆるぎない情熱を書いた物語でもある。そしてその情熱のベクトルは、まぎれもなく私たち読者のほうにも向けられている。もし本書を読み終えて、彼らの愚かしくも幸福な生き方に憧れをいだくことができたのであれば、それは本書の放つ情熱に心を揺さぶられた証拠だと言うことができる。ぜひともその瞬間を感じとってもらいたい。(2013.02.25)

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