【講談社】
『豆腐小僧双六道中ふりだし』

京極夏彦著 



 日本には昔から、じつにさまざまな妖怪がいるとされている。いや、そもそも未知のものへの恐怖を克服するために、人間が生み出した概念こそが妖怪の正体なのだから、まるで生き物であるかのように「いる」と表現するのはおかしなことなのかもしれないが、ともあれ、かつての日本人は妖怪たちが「いる」と信じていたし、その存在をたしかに恐れてもいた。

 では、現代を生きる私たちが、妖怪というものをどんなふうにとらえているのかと考えたとき、おそらくそうした妖怪たちのほとんどに対して「怖い」という感情をいだいていないだろうことに気づく。もちろん、天狗や河童といった大御所をはじめ、子泣き爺や一反木綿、あるいはトイレの花子さんや怪人赤マントなど、新旧含めてさまざまな妖怪の存在を知ってはいる。だが、知ってはいるものの、それはあくまで知識のうえでのことであって、その存在自体を信じているわけではないのだ。

 そう、私たちが知っている妖怪とは、かつてはあちこちにあった暗がりから人間が想起する、概念としての妖怪ではなく、テレビやマンガといったメディアを通じて知った、虚構世界のキャラクターとしての「妖怪」なのだ。逆の言い方をするなら、それまで未知であったさまざまな物事に対して科学的、論理的説明がなされ、概念としての暗闇が少なくなってきた現代において、妖怪たちが生き残るには、メディアのなかのキャラクターとなる、という選択肢しかなかった、ということでもある。そして、メディアによって再構築された妖怪たちは、あくまで「水木しげるの妖怪」「藤田和日郎の妖怪」であって、かつての日本人が恐怖とともに感得した妖怪とは――たとえ同じ名前を冠していたとしても――もはや別物である。

 京極夏彦という作家もまた、そうしたメディアをとおして「妖怪」の存在を描くクリエイターのひとりである。ただ著者の場合、妖怪とはあくまで概念――自然現象や人間の志、信仰心といったものを説明するためのものであり、それゆえに人間の思いひとつによってたやすく影響されてしまう、きわめてあやふやなものであることを何より強く意識している。だからこそ、著者の代表作ともいえる『姑獲鳥の夏』をはじめとする「京極堂」シリーズでは、目に見えない概念に名前を与え、実体化させる憑き物落としの陰陽師を登場させる必要があった。

 そんな著者が、妖怪そのものを主人公にした作品を書いた。それが本書『豆腐小僧双六道中ふりだし』であるのだが、本書の最大の謎は、まさにその主人公である豆腐小僧の存在そのものにあると言っていいだろう。

「でも――でも豆腐小僧、どうしてお前は、そうやってお前自身を保って居られるンだ――」

 豆腐小僧とは、江戸後期の絵草子や歌留多などに頻繁に登場する、その時期においてはなかなか人気のあった妖怪のひとりだったらしい。やることといえば、豆腐をもってうろうろするだけで、まったく害がないばかりか、頭でっかちのしまりのない馬鹿面で、まったくもって怖くない姿形をしている妖怪なのだ。人を怖がらせるのが本分であるはずの妖怪でありながら、怖くないどころか滑稽でさえあるという、よくよく考えてみればおかしなこの妖怪、じっさい本書においても妙に腰が低く、どこかおどおどとしていたり、かと思うとどうもお調子者のようなところがあったり、あるいは人情家だったりと、なんだか妖怪というよりも、ひとりの人間であるかのように書かれている。

 著者お得意の、妖怪に関する薀蓄の豊富さもここぞとばかりに展開されており、ともすると豆腐小僧を案内役に見立てた妖怪めぐりのような部分もあるのだが、そのあたりの説明の仕方は秀逸で、ようするに妖怪とはなんなのか、ということの本質について、かなりわかりやすく説明されている。そういう意味では、一種の妖怪入門書としての要素もあるが、本書の基本は、やはり「滑稽さ」にあると言える。それはたとえば、事あるごとに「豆腐から手を離してみろ」と迫られては情けない声をあげる豆腐小僧の様子や、また滑稽達磨との、まるで漫才のボケとツッコミのような会話といった、直接的な滑稽さだけでなく、そもそも大勢の妖怪を登場させておきながら、にもかかわらず怖いのではなく滑稽という、いわば反目的な意味での「滑稽さ」である。

 すでに先にも書いたが、主人公の豆腐小僧は、なんとも人間臭い妖怪である。そしてどうも、人間に感得されず、それゆえに自身が消えてしまう、存在しないという状態をひどく恐れているところがある。だが、そもそも消えるのが怖い、などという感情は、妖怪の本質を考えればあきらかにおかしなことなのだ。

 はたして、豆腐小僧とはいったい何なのか、そして本書において、彼は何をなすべく存在しているのか――怖くない妖怪、という意味では、今を生きるメディア妖怪と似たようなところがあるが、本書に書かれていることは、いっけんすると存在意義などまったくなさそうなそれらの妖怪に対する、著者なりのひとつの解釈だと言えるだろう。

 訳の解らぬ怖いモノを、畏怖心、嫌悪感、不快感と細分化し、更に様々な解釈を加え、それぞれに規定して、爪を抜き牙を抜いて飼い馴らし、最後には笑い物にしてしまう――その笑いモノこそが我等妖怪なのだ

 ホラー映画を観ているとわかることだが、恐怖の元凶は、クライマックスになるまではけっしてその姿をあらわにすることがない。なぜなら、私たちが何より恐怖するのは、未知であること――その正体が何なのかわからないことであるからだ。だが正体さえわかってしまえば、対策を講じることもできるわけであり、それはもう恐怖の対象ではなくなる。ただたんに、虚構世界のキャラクターだから怖くない、ということではなく、私たち日本人が、かつて妖怪を信じていたこと、そしてその妖怪に積極的な滑稽さを感じていたことの真の意味が、本書のなかにはたしかに書かれている。(2004.07.21)

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