【講談社】
『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』

伊藤比呂美著 



 朝、目が覚める。意識がはっきりしてきて、自分は今日も生きていることに気づく。そこには、まだ生きているんだという希望と、まだ生き続けなければならないという絶望が常に入り混じっていて、一瞬、自分はなぜこの世に生き続けているのか、という答えのない疑問が湧いてくる。

 眠りから醒めたばかりの朦朧とした刹那の時間に、ふと生と死のことに考えがおよぶことがある。眠っているあいだに死ぬことができたとしたら、それはある意味幸福なことではないか、などと考えるのは、不謹慎だろうか。世のなかにはどれだけ生きたくとも生きられない人たちが大勢いることを思えば、贅沢で不謹慎な考えなのかもしれない。あるいは、自分がいまだ独り身であることが原因ではないか、と思うこともある。だが同時に、どれだけ日々の生活が忙しくても、どれだけ多くの人とのつながりを保っていても――あるいは保っているからこそ――夜、眠りに落ちるときは常にひとりであることに変わりはないし、周囲に人が多ければ多いほど、逆にひとりの時間が際立ってくることもある。そして人が死ぬときは、けっきょくはひとりきりだというのも事実だ。

 人の死、とくに、自分にとって大切な人の死が悲しいものであることを否定するつもりはまったくないが、では長く生き続けることがそれほど大切なことなのか、ということにも、もう少し目を向けてもいいのではないかと思わずにはいられない。齢を重ねれば、それだけ体のあちこちにガタがくるものであるし、思考も常に明晰というわけにはいかなくなる。手足が思うように動かず、食事や排泄にさえ苦労するようになり、それでもまだ死ぬことができずにいる――ある一瞬をもって生と死が明確に分けられるような死に様というのは、じつは僥倖であって、私たちの大半は、まるで少しずつ衰え縮んでいくかのような、みっともない生を長く引き伸ばしていくことになるのだ。今回紹介する本書『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』に書かれているのは、そんなみっともない人間の生き様だと言える。

 今の母には、いえたぶん一生ずっと、頼るものが何もなく、そうして今は、がむしゃらにしとりぼっちで、とてつもなく無力で、むき出しに曝されて、苦しみを苦しむばかりなのでした。

 著者自身の身辺雑記という形をとっている本書には、およそ筋書きらしきものはない。あるのは過去に苦しい恋愛をくりかえし、結婚や離婚、中絶といった生々しい体験を経て、今は外国人の夫とカリフォルニアに在住する五十女の今だ。そして彼女の身辺には、常に数多くの苦難が待ち構えている。苦難、といっても、小説のようなある種劇的なものではない。むしろその対極にあるもの――老年に達すれば、おそらくだれもが多かれ少なかれ体験しなければならないような、しかし間違いのない人生の苦難である。脳梗塞で倒れ、体の自由が利かない母、パーキンソン病と診断され、以前にもまして何もしなくなっていく父、大学生の娘は娘で、精神の不調が体調に現われるまでになっており、その誰もが著者を頼らざるを得ない状態にある。著者は何度も日本の実家とカリフォルニアを行き来し、両親の介護をしたり、娘の世話をしたり、かと思えば文化も言葉も異なる夫にもなかば振り回されたり……そんな様子が淡々とつづられていく作品である。

 本書のあらすじについて説明してしまうと、たったそれだけのことになる。けっして明るい話、元気の出るような話ではないし、どこにでもありそうな人生の苦労話で、ともするとなぜ著者が本書を書こうと思ったのか、あるいは読者として本書を読む理由すらわからなくなるような内容であるのだが、よくよく考えてみれば、私たちはこうした等身大の人生の苦難について、どこまで真摯に向き合っているのだろうか。歴史に名を刻むような英雄の人生を歩むことができるのは、ごくわずかな人にすぎず、大部分の人は、おそらく人知れず生まれ、ごくわずかな人間関係のなかで生き、そして人知れず死んでいく身でしかない。だが、苦難は苦難であり、苦しいという思いはその人にとって間違えようのないリアルである。

 わが身に降りかかる苦ですけれど、このごろ苦が苦じゃありません。降りかかった苦はネタになると思えばこそ、見つめることに忙しく、語ることに忙しく、語るうちに苦を忘れ、これこそ「とげ抜き」の、お地蔵様の御利益ではないか。

 ですます調を基本とする、誰かに話して聞かせるかのような文章の本書は、ときに英語の直訳のような感じになるかと思えば、ときに詩を思わせるようなリズムで言葉が綴られていく。これは、著者が詩人であり、また外国に住んでいるということもあるのだろうが、等身大の苦難について、母国語で語ることの生々しさをやわらげ、また自身の苦を客観視するためのテクニックにもなっている。じっさいに、本書のような出来事を体験したときのストレスというのは、けっして小さくはないだろうし、それゆえに蓄積されていく負の感情もあるのだろうが、たとえば両親の排泄物の処理や、自立できなくなった者が見せる弱々しさ、みっともなさについて、本書ではとくに個人的な感情を表現することなく、あるがままに受け止め、書き留めているという印象が出ている。

 人は誰でも年をとる。いつまでも孤高の精神をたもちたいと願っても、いずれ体も脳も古くなり、誤動作を起こすようになるのを止めることはできない。しかし、そうなる前に自ら命を絶つようなことも、なかなかできるものではない。人というのはそんな、なんとも浅ましく、また情けない生き物であるということであるが、本書はそのことをけっして否定しない。苦痛があれば和らげたい、治したいと願うのが人間の弱さであり、性でもある。そんな人々の苦難を受け止め、治すと言われるとげ抜き地蔵の名前をタイトルにもってきた本書は、たしかにその存在自体が「とげ抜き」のようなものだと言わざるを得ない。

 私も人間である以上、いずれは死ぬ運命にあるし、死なないかぎりは生きていくしかない。そしてその生は、この先どこまでつづいていくのかはわからないが、きっと劇的な死などとは無縁の、知らず知らずのうちに体のあちこちが少しずつ壊れていくような、緩慢に死につつあるような生が続いていくことになるのだろう。大好きな本も手にとれず、あるいは本を読んでもその内容が頭に入ってこないような、そんな老人になることを考えると、正直心にざわつくものがあるのは事実だが、本書はそんな心のとげを抜いてくれるような、そんな読後を私に味わわせてくれた作品である。(2010.12.24)

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