【新風舎】
『トゥデイ』
−すべてが壊れる午前零時−

安田賢司著 

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 まぎれもない自分、という表現を、私はこの書評のなかで何度も用いてきた。小説を書くという行為が作者にとっての自己表現のひとつである以上、読者は多かれ少なかれそうした作者の個性を読み取らずにはいられないし、それが物語の登場人物のなかに投影されていたとしても不思議ではない。他の何者でもない、まぎれもない自分自身――それはともすると、ひとりひとりにあたり前のように備わっているものだと私たちは信じているが、まぎれもない自分自身というのは、はたして何を思い、何を感じ、そもそもどんな姿形をしたものなのか、どこまではっきりさせることができるだろうか。

 私たちの生活は、容易にある種のルーチンワークに陥りがちなところがある。朝が来て、夜が来て、それで一日が終わり、また次の日にも同じように一日が過ぎていく。私たちは、あるいは学校に行って授業を受けたり、会社に行って働いたりすることをくり返していくことで、日々を送っているわけだが、そうした社会とのかかわりあいのなかで、私たちは自然とさまざまな建前を立て、仮面をかぶって本心を心の奥にしまっておくことを覚えていく。もちろん、誰もが本音でぶつかってばかりいたら社会は成り立っていかない。だが、そうして上辺ばかりをとりつくろっていくうちに、いつのまにか自分の本心というものを見失っていることが往々にしてあったりする。自分が本当は何を望んでいるのか、というのは、じつは私たちが思っている以上に自覚するのが難しいことでもあるのだ。

 今回紹介する本書『トゥデイ』の書評を書くにあたって、「まぎれもない自分」といった、少々青臭いことを枕として取り上げたのは、本書の主人公とも言える柳田良哉が高校生であり、そこで演劇部に所属しているという設定と無関係ではない。彼が通う新潟神陵高校の演劇部は活動が盛んで、良哉がその高校を選んだのも演劇で役者をやりたいという思いがあってのことだったが、高校二年の秋の大会――現役として参加できる最後の大会――の地区予選が目前ということもあって、創作劇の練習も熱の入ったものとなっていた。演劇部としての大会への挑戦は、良哉の慣れ親しんだ演劇部全員の目標だ。だが、彼にはそのほかにもうひとつ、個人的に決着をつけるべきことがあった。それは、同じ演劇部の来栖桃子をめぐっての、親友でもある国島啓太との決着だった。ふたりはどちらも桃子を好きになっていて、桃子は地区予選が終わったあとに、その返事を聞かせてくれることになっていたのだ。

 良哉の桃子を好きだという思いはけっして偽りのものではないのだが、その思いはときに姑息で身勝手な行為となって暴走し、相手をかえって傷つけ、より状況を悪くしてしまうというなんとも痛い展開が物語の序盤に書かれていく。一年前には、それが原因で密かにつきあっていた桃子との仲は疎遠になり、それでもあきらめ切れず、啓太が桃子への好意を打ち明けてきた時も、上辺ではその恋を応援すると言いながらも、裏ではそれと正反対なことをしてしまう。その結果、地区予選が終わった夜に、桃子との関係も啓太との関係も最悪の状態に陥ることになる。

 このように本書のあらすじを書いていくと、まるで十代の男女のいかにも甘酸っぱい恋愛ものを扱った作品、という印象を受けるのだが、じつのところ本書のもっとも目立つ特長は、良哉や啓太がある一日を何度もくり返す、という異常現象に巻き込まれてしまう点である。朝目覚めると、昨日になっていなければならない九月二十日が、また今日としてはじまっている、しかも自分以外の人間は、その繰り返しを自覚していない――やがて、自分だけでなく啓太もまた、同じように九月二十日のくり返しを自覚していることに気づいた良哉は、とりあえず前回の件は棚上げしたうえで、なぜこのような異常事態が起こってしまうのか、協力して調査していくことになるのだが、最初の二十日には起こった事柄のいくつかが、次の二十日には起こらなかったという事実から、どうもこの同じ一日の繰り返しには、裏で何者かが糸を引いているようなところがあることに気づく。

「……そうなると、こういう仮説を立ててもいいんじゃないか。『トゥデイ』という言葉は、聞いた人間に『今日』を繰り返す運命を与える呪文のようなものだった。それを聞いた俺とお前だけが、こうしてもう一度同じ日を繰り返している」

 なぜ同じ日が何度も繰り返してしまうのか、それを引き起こす要因は何なのか、その原因に深くかかわっていると思われる謎の女性は誰なのか、そしてこの一連の出来事に黒幕がいるとしたら、何のためにそんなことをしているのか――その日にどんなことをしても、その成果を形として残すことができないという事態がしだいに良哉たちの心をむしばんでいく様子や、まるで感染症のように、そのきっかけを特定できないまま今日という日を繰り返す人たちが増加していく様子は、まるでホラーを思わせる臨場感があるし、数多くの伏線を謎として提示しておくことで読者の興味をつなぎとめ、最終的にはそのすべてを説得力のある真相で結びつけていく展開にミステリーとしての要素も見ることができる本書は、じつにエンターテイメントのあらゆるエッセンスを詰め込んだうえで、それをひとつの物語としてまとめることに成功している稀有な作品だと言うことができる。それこそ量子力学や、タイムトラベルにかんするこれまでとは一線を画するような考えをもちだしたうえで、ともすると嘘臭くなりそうな設定をたしかに説得力のあるものとして提示するその力量は脱帽ものであるが、何より本書を印象深いものとしている要素があるとすれば、それは「演じる」という行為に対するある種の思い入れだと言える。

 本書を読んでいくとすぐに気がつくことであるが、この物語を語る視点は、良哉だけではない。彼をメインとして展開する物語のなかに差し挟まれるように、正体不明の女の子の視点が入り込むことがあるのだが、どうも人の心を覗いたり、遠くの出来事を見通したりできる特殊な力をもっているらしいその女の子の視点が、まるで神の視点であるかのように挿入されることによって、良哉をはじめとするその世界の人々が、まるで演劇の登場人物さながら、何らかの役割を演じるようにたくみら操作されているという印象を読者に植えつけることになる。

 自分以外の誰かを演じること――「演技」をするという行為に、私たちはふだんあまり良い印象をもたない。それは、演技をするという行為の裏に、何かを隠している、それが彼の本心ではない、という前提をもっているからに他ならないのだが、逆に言えば、ふだんの自分でない誰かを意識して演じてみるということは、自分という人間を別の側面からとらえなおすということにもつながる。何者かの意図によってはじまった「トゥデイ」症候群という現象そのものが、ひとつの大きな物語であるとすれば、その当事者たちは、同じ一日を何度も繰り返すという非日常的演劇空間に放り込まれることによって、ふだんとは違う自分の思わぬ側面と対面せざるを得ない状況に置かれることになる。そしてそれは、ふだんひた隠しにすることで自分でも忘れてしまっていた仮面をはがし、自身の本心と向き合う機会を良哉にあたえることになる。

 いかにもティーンエイジャーらしい未熟で痛々しい恋愛を見せ、自分を必要以上に格好よく見せようと背伸びをし、そんなふうに不器用な演技をしつづけきた良哉は、今回の事件によって表面的な部分を吹っ切って人間として大きな成長をとげていく。そういう意味では、本書は最初から最後まで少年少女の成長を何よりもストレートに描いた作品だと言えるのかもしれない。同じ一日を繰り返すという現象の意想外な真相も含め、本書のなかに描かれた文字どおり壮大な物語をぜひとも楽しんでもらいたい。(2009.05.22)

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