【河出書房新社】
『彩花へ――「生きる力」をありがとう』

山下京子著 



「憎しみからは何も生まれてこない」と言葉にするのは簡単だが、あまりにも理不尽な出来事にまきこまれてしまったとき、衝動的にわきあがってくる怒りや憎しみといった黒い感情を押さえこむのはけっして容易なことではない。人は個人個人ではあまりにも弱い存在である。育てることよりも壊すほうが、愛することよりも憎むほうが容易である以上、水が高いところから低いところへと流れ落ちていくように、人はしばしば感情のかけ口を求めてより安易な方法を選びとってしまうものだからだ。たとえ、その結果が何も生み出さないとわかっていたとしても、どうすることもできない強い感情というものが、たしかにこの世に存在するものだということを、私たちは知っている。

 平成9年に日本じゅうを震撼させた、神戸連続児童殺傷事件――「聖なる実験」と称して、次々と幼い命を奪っていった14歳の少年の犯行は、まさに現代の社会がかかえるあらゆる歪みをそのまま包括するような事件であったことに間違いないが、それ以前に、ひとりの、あたり前の人間としてこの事件に目を向けたときに、私たちは、あまりにも理不尽な理由でその命を落とさなければならなかった被害者のそれまでの生が、いったい何だったのか、幸福に生きていく権利を持ってこの世に生を受けた彼等が、なぜあのような形で一生を奪われなければならなかったのか、ということを真剣に考えなければならなくなる。

 本書『彩花へ――「生きる力」をありがとう』は、その少年の凶行によって娘の命を奪われた母親によって書かれた本であるが、それはあの忌まわしい事件を記録するためのものではなく、またその理不尽な出来事に対する心情の告白でも、少年に対するやり場のない怒りをぶつけるようなものでさえなく、ただ、自分の娘が、たんなる記号ではなく、たしかに血の通い、あたたかな心をもったひとりの人間として、この世の生をまっとうした、ということを多くの人たちに知ってもらうために書かれた本なのである。

 正直なところ、本書のような本との出会いは、いつも私を途方にくれさせてしまう。人の親という立場にいるわけでもない、ともすると自分の都合ばかりを人に押しつけて、相手を思いやることを忘れてしまう私ごときが、いったい本書の何を語ることができるというのか、という気持ちになってしまうからだ。ただ、ひとつだけ言えることがあるとすれば、ひとりの母親として娘とどう接し、娘の一生からどれだけ大切なものを与えられたか、そして最愛の娘をあのような形で失ってしまったという現実とどう向き合い、前に進んでいこうと決意するにいたったか、ということを、飾り気のない文章で淡々とつづっている本書が、たんに彩花ちゃんの、あまりにも短かった生涯にどのような意味があったのかを問いかけるばかりでなく、同時に本書を読む人たちひとりひとりの生の意味をも問いかける、ひとつのきっかけとして作用する、ということである。

 この地球上には、現在50億以上もの人々がいると言われている。無限に広がる大宇宙の、塵にも等しい小さな惑星上の、50億分の1にすぎない、あまりにもちっぽけな自分の存在に、どのような価値があるのか――このような問いかけが生まれてくること自体、本書でも指摘しているように、知識ばかりを詰め込み、学校の成績のみで人間としての優劣を決定してしまい、人間としてどのように生きるべきなのか、というもっとも大切なことを置き去りにしてきた現代の教育の弊害だと言うことができるだろう。そこから見えてくるものが、多くの知識をもっていながら、その知識をどう生かせばいいのかわからないまま、自分にとって都合の良い妄想をもてあそんでいるうちに、現実との接点を見失ってしまった、頭でっかちなあの少年の姿とダブってくるのは、おそらく私だけではあるまいが、こうして「社会が悪い」「学校教育が悪い」と言葉巧みに責任を何かに押しつけ、自分だけはまったく関係ないかのようにふるまっている、私自身も含めた世の多くの大人たちもまた、じつはあの少年と同じような妄想の中で生きているにすぎない、という厳しい現実を、本書はじつは鋭く指摘してくれる。その不意打ちの前には、どのような知識も権威も、まったくの無力だ。

 私たちひとりひとりが、人間としてどのように生きるべきなのか、何のために生きていくのか、という「生きる姿勢」――これまでずっとなおざりにされてきたこの問題に真剣に取り組むことは、おそらく非常に苦しい作業となるに違いないし、もしかしたら明確な答えなど望めないかもしれない。しかし、どれだけ多くの時間をかけてでも、この問題と真正面から向き合わなければならない、という本書の強いメッセージの源は、あの事件から1週間のあいだに彩花ちゃんが見せた、奇跡とも言うべき「生きる力」であることに間違いはない。それが、たんに著者の、娘の一生をけっして無駄にはしない、死が無と同義などという理屈を受け入れはしない、という著者の個人的な決意を超えて、私たちの心に訴えかけてくるものがあるのは、私たちもまた、彩花ちゃんと同じ人間であり、同じ命の輝きをその内に宿している、ということの証でもあるからだろう。

 少年の狂気のハンマーは、彩花の頭蓋骨を打ち砕きました。しかし、そのハンマーも、彩花の命の内面を砕くことはできませんでした。少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した「きっかけ」にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章に進んでいくのです。

 神戸連続児童殺傷事件は、人の心に巣食う闇の深さをあらためて思い知らせる、重苦しい事件であったが、どんなに暗い闇をもってしてもけっして消し去ることのできない命の輝き、そして不可思議な人の「縁」――人間として生きようとするたくましいまでの力の存在を、たしかに感じ取った人たちがいる。絶望の淵に立たされながらも、その力に励まれて、人を憎むのではなく、愛することを選んだ著者の姿に、人間が背負わずにはいられない「原罪」から救われるための道が、見えてくるのではないだろうか。(2002.01.22)

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