【東京創元社】
『銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件』

アンドリュー・カウフマン著/田内志文訳 



 以前紹介した鷲田清一の『<ひと>の現象学』のなかで、「心」について書かれた章がある。心というのは、明確な形で目に見えるわけでもなく、また手にとって触れることができるものでもない。それが体のどこに存在するのか――心臓なのか、あるいは脳なのか――といったことさえ、はっきりと答えることができない。にもかかわらず、私たちの大半は自分には「心」があると思っているし、そのことを疑ってもいない。これはよくよく考えてみれば不思議なことなのだが、逆に言えば、世の中は明確な論理性だけでは推し量ることのできないものがたしかにある、ということを示唆してもいる。そしてこの、理屈だけではとらえられない部分こそが、人間を人間たらしめる大切な役割を担っているのではないか、とふと考えることがある。

 たとえば、経済はあらゆるものをお金で換算することを可能にしたが、それでも私たちは、人の命を金額にしてその価値観を比較することになんらかの抵抗をおぼえずにはいられない。お金は一種の数字であり、その多い少ないが一目瞭然であるがゆえに、指標のひとつとしては非常に使い勝手のいいものはあるのだが、だからといって、それを人間の価値判断にまで応用してもいいということにはならない。「どうせ減るもんじゃないし」といって援助交際に走る女の子に対して、明確な言葉にはできないけれど、目に見えない大切な「何か」がたしかに減っているのだと言いたくなるのと同じように、目に見えるお金といったものだけがすべてではない、という思いは、おそらく誰もが多かれ少なかれ持ち合わせているものであるはずだ。

 今回紹介するのは、『銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件』というタイトルの小説である。原題は「Tiny Wife」といたってシンプルだが、その奇妙奇天烈な、どこか非現実的な空間を演出する本書の様相を表わしているのは、むしろ邦題のほうだと言える。銀行強盗に遭ってしまうことと、妻の体が縮むこと――このふたつの事柄にいっさいの因果関係はないのだが、なぜかそういうことが起こってしまうのが本書なのである。

「あなたがたの魂というものは、命を持ち、呼吸をする、生身のものなのです。――(中略)――人の魂とはあなたがたに素晴らしき、美しきことを成し遂げる力を与え続けてくれるものなのです。しかし魂とはかくも不思議なものでありまして、常に回復させ続けなければいけないものなのです。――」

 カナダのオンタリオ州にある北アメリカ銀行の、とある支店に押し入ったひとりの強盗――ひらひらした紫色の帽子をかぶったその男は、しかしその場に居合わせた人たちに金ではなく、それぞれが「もっとも思い入れのあるもの」をひとつだけ渡すように要求する。彼はまんまとそれらの品を手に入れると、被害者たちの魂の五十一%をいただいたこと、そしてそのことで一風おかしな、不可思議なことが起こること、そして失われた魂を自力で回復させなければ、死に至ることもあると告げて逃げ去ってしまう。

 この強盗がはたして何者なのか、なぜ金ではなく「もっとも思い入れのあるもの」を奪っていったのか、そして「魂の五十一%をいただいた」とはどういうことなのか。先にことわっておくと、本書を最後まで読んでも、そこに明確な回答は出てこない。だが、目には見えない「心」の存在をたしかに実感するのと同じように、彼の言葉が真実を言い表していることはわかる。そう、ひとつの事実として、銀行強盗の場に居合わせた十三人の身につぎつぎと奇妙なことが降りかかってきたのだ。本書の語り手である「僕」の妻もそのひとりであり、毎日少しずつ背丈が縮んでいくという現象に見舞われてしまう。

 彼らに起こった奇妙な事柄は、彼ら自身にふりかかったものもあれば、彼の家族におよんだものもあって千差万別である。たとえばドーン・マイケルズの場合は、くるぶしの上に彫ったライオンのタトゥーが本物になって飛び出し、彼女を襲うようになってしまうし、銀行の副支店長のサム・リビングストンは、いきなり自分のいるオフィスが水中に没していることに気がつく。デイビッド・ビショップについては、彼自身ではなく彼の母親が九十八人の小さな母親に分裂してしまうし、グレイス・ゲーンズフィールドの場合は、彼女の夫が雪だるまになってしまった。なかには強盗の言葉通り、自分自身がお菓子になって夫に食べられるという最期を迎えてしまった人もおり、それは語り手にとってもけっして他人事ではないのだ。なぜなら、このまま妻の身長が縮んでいくとしたら、いつかは残りの身長が尽きてこの世から消えてしまうかもしれないことに気がついたからである。

 なんら合理的説明もないままに、現実にはありえそうもない事柄がただの事実として起こるという本書は、「訳者あとがき」でも示唆されているように、またいみじくも強盗自身が口にしているように、比喩にとんだ作品である。たとえば語り手とその妻は、ひとり息子の幼いジャスパーを含めた三人家族であるが、その結婚生活はどこかぎくしゃくしたもの、ありていに言えばいろいろなことにうんざりしているという事実がある。それが今回の「事件」をきっかけに、お互いの心にどのような変化が生じるのかが一応の本書のストーリーではあるが、もし本書が比喩の世界であるとするなら、問題なのは「妻が縮む」という現象が何を意味しているのか、ということになる。

 だが同時に、これらのわけのわからない出来事に意味を求めること自体が、ナンセンスであることにもすぐに気づくことになる。じっさい、語り手の夫婦関係がしっくりこない理由については、お互いにはっきりとこれだというものを提示することができずにいて、それゆえにふたりはこの問題についてどこか見て見ぬふりをしているようなところがある。

 そんなときに、例の強盗事件が起こった。

 ある意味では、十三人の身に起こった奇妙な出来事は、彼らが心のどこかで向き合うのを避けてきた、先延ばしにしてきた問題を目に見える形にしたものだと言える。目には見えないが、たしかに存在するそれらのもの――付き合っていた彼女と別れたばかりのティモシー・ブレイカーが、その別れた彼女に心臓を掴み出されるという出来事などは、まさに象徴的だ。自分の目では見ることのできない心臓を、生きたまままのあたりにするということは、そのまま隠されていたものとの対峙を迫られるということでもあるのだから。

 目に見えないからといって、それが存在しないということにはならない。だが目に見えないもの、たとえば魂とかいったものを、どのように「回復」させればいいのか、というのは、即物的なものの考え方をしてるかぎり難しい問題でもある。銀行強盗が奪っていったもの、そこに居合わせた人たちが奪われたもの、そしてその奪われたものを、それぞれがどのようにして取り戻していくことになるのか、ぜひ想像力をはたらかせて読んでもらいたい。(2014.04.09)

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