【集英社】
『チグリスとユーフラテス』

新井素子著 
第20回日本SF大賞受賞作 



 人はなぜ生まれてくるのか。人はなぜ死んでいくのか。
 これってたぶん、もの書きだったら誰でも一度は挑戦してみたい、根源的なテーマだと思う。ううん、たとえもの書きじゃなかったとしても、人間として生まれてきた以上、おそらく誰もが一度は疑問に思うんじゃないだろうか。この世に生まれ落ちた生命は、その瞬間から来たるべき死へのカウントダウンをはじめてしまう。そして、そのカウントダウンは、誰が、どうやったって、絶対に止めることはできない。
 どうせ、いつかは死んでしまう生命。それも、天寿をまっとうできたとしてせいぜい八十年という、宇宙規模の生成流転から見ればまさに塵に等しいこの一生、この与えられてしまった生に、いったいどんな意味があるっていうんだろう。

 人はなぜ生きるのか、という問い――その究極の問いかけを、新井素子というもの書きは、彼女なりのもっとも真摯な態度で受け止め、それを真正面から見据え、そして彼女なりの表現方法で答えようとした。それが本書『チグリスとユーフラテス』なんだろうと思う、私は。
 そう、はからずも「最後の子供」となってしまった、ルナという人物を登場させることによって。

 以前、鈴木光司の『楽園』に関する随筆のページで、私は人類が人類の総意として宇宙に船を漕ぎ出すことを目指しているんじゃないか、といったようなことを書いた。本書は、人類が地球から飛び出して、なおかつ地球以外の遠い惑星に移住することが夢物語から現実の選択肢として用意されるようになった、そんな未来の話。そしてさらに、その移民惑星がまがりなりにも地球から独立し、地球と同じような文化と生活習慣を手に入れることができるようになった、そんな遠い未来の話。
 そんな移民惑星のひとつであるナインは、その最初の移民船――キャプテン・リュウイチとレイディ・アカリが率いる一団――が最初にこの惑星に降り立ってから四世紀を経た現在、死の淵に瀕していた。いったい、何が原因だったのか――人口子宮による惑星人口の増加を図ったのが悪かったのか、それともナインの環境に何か問題があったのか、それはわからないけど、ともかくナインの住民の生殖能力が著しく低下し、その対策がことごとく失敗した結果、ナインの人口はある日を境に減少をつづけ、ついにたった一人になってしまっていたのだ。その最後の一人が、ナインで生まれた最後の子供でもあるルナ、というわけ。ただ、このルナっていう女性、リボンとレースでごてごてに飾られたドレスを身にまとい、いかにも幼女っぽい言葉遣いはしているけど、もう七十歳を超えるおばあさんなのだ。最後の子供として、望みもしないのに永遠に責任能力のない子供であることを義務づけられてしまったまま、すべての人間の死に絶えた惑星にたったひとり取り残されてしまったルナは、ある日、コールドスリープについた人たちを、次々と目醒めさせていく。

 人はなぜ生きるのか、それが本書のテーマだと、私は書いた。それゆえに、本書の内容はひどく、重い。重くて、そしてある意味残酷でもある。そりゃそうだろう。コールドスリープは未来への可能性ってやつが前提となって、はじめて成立する技術だ。今は助からなくても、いつか医学が発達し、そのときは不治の病や回復不能な怪我が治るような時代が来るかもしれない、と願って眠りについたはずなのに、目醒めてみれば、そこにあったのは未来が完全に断ち切られてしまった、黄昏の社会。しかも自分を目醒めさせた張本人であるルナは「最後の子供」――永遠に子供でありつづける存在なのだ。起こされた方も、起こした方も、どちらにも罪はないんだろう。でも、どちらも信じられないくらいに不幸なのだ。

 それなのに。本書の文体は、驚くほど軽い。まるで、コバルトかどこかの少女小説に出てくるヒロインが語っているかのような文体は、内容そのものが持つ重みと比べて、あまりにもアンバランスなのだ。
 このアンバランスは、いったい何なのだろう、と思う。でも同時に。このアンバランスさこそが、本書を読むうえでの鍵、なんじゃないかとも思うのだ。

 アンバランスと言えば、そもそも肉体的には七十過ぎの老婆であるのに、心は今もなお幼い少女であるルナの存在自体が、すでにアンバランスだ。そして、彼女の心のなかもまた、同様にアンバランスだ。コールドスリープについた人たちを起こすこと、それが起こされた人にとって、どんなに不条理なことであるか、ルナはじつは、よく判っている。それでもなお、起こさずにはいられなかった。コールドスリープにつく権利のあった、それぞれの時代における特権階級の人たち――その彼らが必死になって行なってきた「移民事業」の結果が、自分という不幸を生むことでしかなかったこと、自分の生と同じように、彼女たちの生もまた、まったく無意味だったということを、まざまざと見せつけてやるために。だが同時に、ルナは欲してもいたのだ。なぜ自分が生まれてきたのか、という問い、その問いかけに答えてくれることを。すべての生は、無駄じゃないんだ、と誰かが言ってくれることを。

 復讐と安寧を求める心、この相異なるふたつの感情に挟まれて、ぐらぐらと揺れ動くルナの心、その不安定さが、あの一種稚拙にも思える文体を連ねることで、じつに効果的に表現されていると言うことができる。それは、言いたいことがたくさんあるのに、それを的確に表現できる語彙に乏しい子供が、それでも必死になって説明しようとする、あの感じを思い出させるのだ。そして、アンバランスな精神を抱えているのは、何もルナばかりではない。マリア・D、ダイアナ・B・ナイン、関口朋美といった、ルナに目醒めさせられた人たちもまた、心のどこかでバランスを欠いている人たちであり、それゆえに苦悩しなければならなかった。レイディ・アカリに到っては、普通の人間でありながら、ナイン社会の女神でもあるという、その究極の二律背反を抱えて生きつづけなければならなかったのだ。

 惑星ナインへの移民は、最終的には失敗した。でも失敗したことをもって、それまでやってきたことすべてが無駄だ、というのであれば、生まれた瞬間から死ぬことを運命づけられている人間の生もまた、同じように無駄ということになってしまう。そして人間の生の否定は、最終的には人類という種そのものの否定にまでつながってしまうのだ。でも、それでもなお、私たちは生きている。レイディ・アカリが言うように、「自分がいずれ死ぬという事実」を受け入れながら、それでもなお、人間だけがもつ想像力を駆使して、生きることになんとかして意義を持たせようとしながら。あるいは、生きることの意味を信じながら。

 はじまりがあった以上、いつかは必ず終わりがやって来るという事実――その圧倒的な事実を知って、それでもなお生きつづけ、産みつづけずにはいられない人間という存在は、はたして不幸なのか、そうではないのか? 本書のなかに、その明確な答えがあるわけではない。ただ、人間が、「死」の認識という代償を払って手に入れた「想像力」――その素晴らしい力に少なくとも著者が希望を抱いているってことだけは確かだ。かつて人間が空を目指すことを夢みつづけ、ついにそれを実現させ、地球の外にある惑星への移住さえはたしたのと同じように、もしかしたら、死すら超越する「生きることの意味」を、いつかは見出すのではないだろうか、そんなかすかな希望が、本書『チグリスとユーフラテス』のラストには込められているような気がしてならない。(2000.04.23)

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