【新潮社】
『タイガーズ・ワイフ』

テア・オブレヒト著/藤井光訳 

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 ある人物を象徴する物語、というものがある。これは、あるいは「エピソード」と言い換えたほうがいいのかもしれないが、たとえば野口英世における左手のやけどとその治療のエピソードや、トーマス・エジソンにおける学校でのエピソードといったものは、歴史上の偉人を知るうえで私たちにとっては馴染み深い「物語」のひとつである。物語の役割のひとつは、私たちにはもう手が届かない人たち、それこそ伝記という形でしか知りようのない人物を、私たちと同じ生きた人間として提示することだ。それゆえに、たとえば渡辺淳一の『遠き落日』や、リチャード・モランの『処刑電流』のように、ひとりの人間としてはけっして褒められたことではないエピソードがさらされることもあるが、それもまた、彼らがまぎれもない人間だったという意味では、やはりひとつの「物語」としての機能をもっていると言うことができる。

 ここで問題となるのは、そうした個人の「物語」が無数にあるとして、どの物語を誰に語るべきなのか、という点である。たとえば私たちは、個人の思いとは裏腹に、多くの他人によって印象づけられたイメージというものがある。それは、あるいは社会人としての「私」であったり、サラリーマンとしての「私」であったり、職業人として「私」であったり、家族の一員――たとえば夫や父としての「私」であったりする。それらのどれも、言ってしまえば「私」という人間の一部であることは間違いないが、そうした外側に対して構えている自分、自分と他者との関係性によって成り立っている自分とは別に、ほかならぬ自分自身だからこそ知りえるエピソードというものもある。それは純粋に個人の主観によって成立している「物語」であり、それゆえに事実とはかけ離れている場合もあるし、そもそも社会の構成員としては何の意味もないこともある。だが、他ならぬその「物語」が、私を純然たる「私」たりえている要素のひとつとなっている場合もあることを、私たちはもっと留意すべきなのかもしれない。本書『タイガーズ・ワイフ』を読み終えたときに、私がまず感じたのは、そうした「物語」の効能とも言うべきものである。

 祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」
「どんな瞬間?」
「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」

 本書の語り手となっているのはナタリアという名の若き女医であるが、物語の中心にいるのは、彼女の祖父である。隣国との紛争が終結して間もないある日、その隣国の孤児院に予防接種のボランティアのために向かっていたナタリアが、祖父の死の知らせを受けるところから物語ははじまる。彼女と同じく医師だった祖父は、他ならぬナタリアに会いに行くと言って家を離れ、辺境の小さな町ズドレヴコフで息を引きとったという。ナタリアは、祖父が病気であることを知っていたが、そのことを祖母や母といった家族に隠したがっていることも知っていた。そんな祖父が、何のために地図にも載っていないような町へ出かけていったのか、という謎がここで生じることになるのだが、重要なのは、そこにどのような真実が隠されているのかといった、ミステリーとしての要素ではない。むしろ、祖父の死によってナタリア自身が向き合うことになった、祖父を象徴するふたつの物語こそが本書の骨子だと言える。そしてそれは、彼女自身も知りえなかった祖父の人物像へとつながるものでもある。

 祖父にまつわる物語は、大きくふたつある。ひとつは彼の生涯において三度出会うことになる「不死身の男」の話、もうひとつは、彼の故郷であるガリーナ村に住んでいた「トラの嫁」の話である。前者は祖父が生前にナタリアに語って聞かせたもので、彼がまだ若い医師だったときに、自ら不死だと語る男ガヴラン・ガイレとの、その不死性をめぐって賭けをするという、どこか謎めいた物語となっている。後者は、祖父自身の口からは語られなかった物語であり、彼の死後にナタリアが各地でその断片を拾い集めてきた結果、浮かび上がってきたもので、戦争の爆撃によって逃げ出した動物園のトラと、夫からの暴力で傷ついていた聾唖の女との奇妙な出会いと、それがもたらした運命を綴っていくことになる。

 あくまでナタリアが祖父の訃報に触れる現在を主軸として、「不死身の男」の話を主体とする過去と、これからナタリアが知ることになるであろう「トラの嫁」の話を主体とする未来を行き来しつつ、祖父という人物を物語っていく構造をもつ本書は、まるで「物語」によって現実を補完していくかのようにも見える。「不死身の男」の話にしろ、「トラの嫁」の話にしろ、いかにも非現実的な要素を秘めた――言い方を変えれば、どこかファンタジーめいた要素を持つものであり、およそそれがまぎれもない事実であると認めるのは難しい。「不死身の男」の話は、あくまで祖父によって語られたものにすぎず、「トラの嫁」の話にしても、ナタリア本人の推察が多く含められている。どちらの話もフィクションにすぎないと言えばそれまでではあるのだが、問題なのはその真偽のほどではなく、そうした物語が、祖父という人物の何を語ることになるのか、という点である。

 本書を読み進めていくとわかってくることであるが、このふたつの物語には、それにまつわるいくつものエピソードが枝分かれするような形で付随している。とくに「トラの嫁」の話については、聾唖の女の夫であるルカのエピソードや、トラを退治に来た狩人であり、また剥製師でもある「クマのダリーシャ」のエピソードなど、祖父とは直接の関係はないものの、まるで「トラの嫁」の物語を補完するかのような物語によって彩られている。そして、ナタリアが向かった修道院のある土地においても、ある男が昔、この地に埋めたという親戚の遺体を見つけようと家族総出で穴を掘っており、そこにもあるひとつの物語が支配していることを彼女は知ることになる。

 繰り返しになるが、いずれの物語についてもどこか迷信めいた雰囲気があり、およそ医学を志そうとしているナタリアには到底受け入れられそうにないものばかりではあるのだが、ではなぜこのような物語が語られているのか、という部分に焦点を当てたときに、そこには当人にとってはあまりに辛すぎて、ありのままに受け入れることができない真実の存在が浮かび上がってくる。そしてその背景には、この物語の舞台となっている国で何度も引き起こされている戦争や紛争が大きく絡んでいる。

 受け入れられない現実に対して私たちにできるのは、それをなかったことにしてしまうか、あるいは「物語」というオブラートに包むことで現実を捻じ曲げるしかない。捻じ曲げる、というと悪いことのように思えるかもしれないが、現実というのは往々にして厳しいもので、そのすべてを受け入れることができるほど人間は強い意思の持ち主ばかりではない。何より今という時間を生きていくためには、「物語」という形で過去を再構成しなければならない時があることを、本書は何よりも雄弁に物語っている。そしてそれは、ナタリアの祖父についても、彼女自身についても同じであり、その意思が最終的には彼女の未来にある「トラの嫁」の物語へとつながっていくことになる。

 「トラの嫁」の物語は、本人の口からは語られなかった話である。それゆえに、祖父がその話を誰かに語りたかったのかどうかは、じつのところ誰にもわからない。だが、祖父の死後にナタリアによって再構成されたその物語は、医師としての祖父とはまた違った、彼の家族だからこそ共有されるべき特別な祖父の姿を浮かび上がらせることに成功した。私を他ならぬ「私」たりえている物語――その奥深さをぜひ堪能してもらいたい。(2013.09.11)

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