【理論社】
『虎と月』

柳広司著 



 名前というのは不思議なもので、それまで意識されることのない有象無象にすぎなかったものが、名前をつけられることによって、にわかにその人の世界のなかでこのうえなく重要なものとして位置づけられることになる。たとえば、ペットを飼うと決めたときに、飼い主はたいてい、その対象となる愛玩動物に固有の名前をつける。そのことによって、飼い主にとってその一頭は、たとえば「犬」や「猫」といった抽象的な存在から、唯一無二の存在として認識されることになる。上野動物園で長年人々に親しまれてきたジャイアントパンダのリンリンに対して、その死後に慰霊碑が建てられ、そのさいに多くの人たちが慰霊に訪れたという事実は、それが「ジャイアントパンダ」という多くの個体の一つだからではなく、そのなかのまさに「リンリン」だからこその反応だと言うことができる。

 だがその一方で、名前をつけることが、本来あるはずの個性を打ち消すことにつながることもある。いわゆる「レッテルを貼る」というもので、たとえば「前科者」や「オタク」など、おもに悪い意味をもつ言葉で特定の人間をひとくくりにしたりすることが、それにあたる。「あの人は前科者だから」という言葉とともに、その人の言動の大半を片づけてしまうのは、その人の個性を問題とする場合には間違ったことであるのだが、いずれにしても、名前をつけるという行為は、言葉というコミュニケーションの道具をもった人間の心と無関係ではない。

 良きにしろ悪しきにしろ、わけのわからないものに対して理屈づける、名前を与え、人間の秩序のなかに組み入れてしまおうという心の動きは、人間だけがもつ現象だ。そして、その現象のもっとも根本にあるのは、何かを知りたいという好奇心である。今回紹介する本書『虎と月』は、中島敦の『山月記』において、虎に変身した李徴の息子が語り手となって展開していく作品であるが、その中心にあるのは、言うまでもなく「なぜ李徴は虎になったのか」というひとつの謎である。

 人と、虎は、ちがう。
 ぼくと、父も、やっぱりちがう。
 二つのものは、けっして同じではない。
 けれど、考えてみれば、毛虫と蝶だってやっぱりちがうのだ。

 ふだんは穏やかな性格であるにもかかわらず、あるとき隣町の連中とのケンカに巻き込まれ、気がつくとケンカ相手を叩きのめしていたという経験から、父の血が流れる自分もまた虎になってしまうのではないか、という疑念にとらわれた十四歳の語り手が、かつて虎となった父に会い、父が詠んだ漢詩を伝えてくれた袁參氏に相談しようと決意し、長安へと旅に出る、といった感じで話が進んでいく本書であるが、ここで特記すべき点として、父である李徴が虎に変身したという事実を、まさに文字どおりの意味で信じてしまっていることが挙げられる。

 ごく常識的に考えて、人間が虎に変身するなどというのは、起こりえるはずのないことである。せいぜい考えられるとすれば、「虎のように獰猛だ」といった、比喩的な意味合いで使われているという線なのだが、にもかかわらず、語り手がそのことを現実として受け入れてしまった要因として、袁參氏が書き取った父の漢詩の存在がある。それは、語り手をして「誰がどう読んだって、虎になった男のことばだ」と思わせる内容なのだが、逆に言うなら、その漢詩が意味するところのものを正しく理解すれば――その漢詩の謎が明らかになれば――おのずと虎になった父親の謎も解ける、という構図が生まれてくる。

 そう、言ってみれば、本書が提示するミステリーとは、「なぜ李徴は虎になったのか」という謎というよりも、「李徴が残した漢詩が、なぜ虎になった男という解釈を含むのか」という謎であり、そこには言葉の問題がまぎれ込んでくる。だが、私たちは古典的名作である『山月記』の、人間が虎になるという理不尽さを書いた作品のインパクトを、そのまま本書のなかにも持ち込んでしまう。そういう意味で、著者の書く作品は、題材の調理の仕方に対する抜群のうまさがある。

 あくまでミステリーという形式を意識している作品である以上、物語は謎の解明という結末に向けて進んでいくことになるのだが、安禄山の乱といった当時の出来事や、袁參氏の就いている官職、あるいは語り手が長安の南へとさらに足を進めるさいに目を留める、周囲の自然の変化の様子など、いっけんすると状況説明のように思える箇所にも、じつは謎解きの伏線を巧妙に組み込んであるところがあり、いくつかの小さな謎と小さな解明を提示しつつ、読者を飽きさせないように次第に大きな謎の真相へと導いていく構成も含めてさすがと思わせるところが多い。だが、自分もまた虎になってしまうのではないか、という理不尽な恐怖にとらわれていた語り手が、その謎解きをつうじて人としてひと回り大きくなるという、人間の理性の勝利と成長という要素をきちんと押さえているところに、著者のミステリーに対する姿勢を感じることができる。

 謎を解くという行為も、名前をつけるという行為も、元をただせば「わけのわからないもの」に対して秩序づけ、手なずけようという意図がある。そしてその意図には、多分に主観的なものの見方が混じってくるものでもある。はたして、「なぜ李徴は虎になったのか」という謎の答えとして、どのようなものが用意されているのか、そもそも謎を解くとはどういうことなのか、あらためて考えさせられるものが、本書のなかにはたしかにある。(2009.09.28)

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