【東京創元社】
『トマシーナ』

ポール・ギャリコ著/山田蘭訳 



 以前読んだ鯖田豊之の『肉食の思想』によると、欧米人にとっての動物とは、彼らの信仰する神が人間のために生み出してくれたものであり、自分たち人間とそれ以外のものとを明確に区別する――より正確には、人間が他のあらゆる生物の上位に位置づけられるというある種の差別思想が成立していると説いている。ゆえに、たとえば「動物愛護」という考え方についても、彼らの場合はあくまで動物たちに無用な苦痛を与えることを否定しているにすぎず、べつに動物を殺すこと、たとえば家畜を屠殺してその肉を食するといったことなどは否定していない、ということになる。

 人間の食生活の違いから欧米の思想について切り込んだ『肉食の思想』は、なかなかに興味深いものがあるのだが、そこで対象となる「動物」とは、おもに家畜全般のことを指しているようなところがある。これらの動物たちは、人間の食料として貢献するために飼育されており、まさに「人間のために生み出された」存在ということになるのだが、ではペットとして人間に飼われている愛玩動物たちについて、欧米人が家畜と同じような考えをいだいているのかというと、そうとばかりは言い切れないのではないか、とふと考えてしまう。そもそも愛玩動物というのは、家畜のような役目を負っているわけではなく、そういう意味では、人間が生きるうえで必ずしも必要不可欠な存在というわけではない。人間は食料がなければ生きていけないが、ペットはいなくても生きていける。だが、そんなふうに効率性のみを優先する考え方だけでは、あまりに人間味に欠けていると言わなければならない。とくに本書『トマシーナ』を読むと、そうした思いがよりいっそう強くなるのを感じることになる。

 これ以上もったいぶるつもりはありません。これは、殺害にまつわる物語なの。
 ただ、そこらで読まれている殺しについての本とちがうのは――殺されたのが、このあたしだということ。

 本書は一匹の猫――獣医の娘メアリ・ルーの飼い猫であるトマシーナをめぐる物語であり、本書ではそのトマシーナの独り語りによって進められる一人称のパートと、ふつうに三人称によって語られるパートの二種類が互いに織り込みあうような構造となっている。じつはこの独特の構成が、本書のミステリーとしての要素を成立させる大きな鍵となっているのだが、同時に人称の違いを利用することで、猫の視点から見た世界と、人間の視点から見た世界のふたつを書き分けるという効果もある。

 トマシーナはメアリ・ルーには溺愛されており、トマシーナ自身も、その過干渉なところに辟易しながらもじつはまんざらではないという気持ちをいだいているが、いっぽうメアリの父親であるアンドリュー・マクデューイからは嫌われている。スコットランド高地の片田舎に獣医として開業している彼は、獣医でありながら動物嫌いという人物で、とくに人間によって甘やかされた愛玩動物を軽蔑しているところがある。もっとも、獣医としての腕はたしかで、羊や豚といった家畜を飼っている郊外の農家からは敬意を払われているし、もともとは医師になることを夢見ていた彼は、典型的な医学の信奉者ともいうべき人物として描かれている。

 そうした事情もあって、マクデューイ氏は自分の診療所に町の人たちが持ち込んでくるペットたちに対して、それが生き物であるというよりは、むしろ道具か何かのような扱いをするのが常だ。その症状の重さによっては、治療を施すよりも安楽死させるという選択肢を飼い主に迫ることもしばしばであるが、そこには動物たちを長い苦しみから解放するという意味合いより、むしろこれ以上生かしておいても無駄だというきわめて功利的な考えがある。上述の引用において、トマシーナ自身が「殺された」と称しているのは、ある日病気で動けなくなった彼女に対して、マクデューイ氏が詳しい検査や治療をすることもなく早々に下してしまった安楽死のことを指しているのだが、問題なのはそうした無情とも思える判断をくだしたことによって、愛娘であるメアリ・ルーの心が父親から離れてしまい、トマシーナを失った絶望のあまり彼女自身が思い病気にかかってしまうという事態を招いたことにある。

 家畜のように人間が生きていくための役に立っているわけでもない、ただ飼い主によって甘やかされるだけの存在――それがマクデューイ氏のペットに対する認識であり、それはメアリ・ルーがこのうえなく可愛がっていた猫のトマシーナに対しても同様である。だが、まさにそうした認識が、妻を亡くして以来彼がもっとも大切に思っているひとり娘の生きる力を奪ってしまうという事実に、マクデューイ氏は動揺し、狼狽せずにはいられない。はたしてメアリ・ルーは病気から回復するのか、そしてもう手の施しようもないほど壊れてしまっている父と娘の関係は、修復されるのか? といった物語としての読みどころはもちろんあるのだが、なんといっても魅力的なのは、一人称の語り手としての役割を与えられた猫のトマシーナの秘密であり、またその秘密と浅からぬ関係をもつことになる「赤毛の魔女」ことローリ・マグレガーの存在だ。

 とくに、峡谷の奥に住処をかまえ、必要以上に人に干渉せず、町の住人から変わり者あつかいされているローリは、獣医のような知識や技量をもたないにもかかわらず、動物や鳥の傷を癒し、また動物だけでなく天使や妖精たちとも親しくしていると噂されている女性である。神を信じず、功利主義と医学の力を信奉するマクデューイ氏とは、対極に位置する人物だと言ってもいい。物語の過程において、彼はローリとの邂逅をはたすことになるのだが、彼の信じるあらゆるものからかけ離れた、この不思議な女性の存在が、マクデューイ氏のかたくなな――それこそ彼の長年の友人であり、牧師として神に仕える身であるアンガス・ペディでさえ変えられなかった心に、どのような変化を引き起こすことになるのかも、本書の大きな読みどころとなっている。

 本書を読んでいくと、愛玩動物の存在と祈りという行為は、ある意味で似たもの同士であることが見えてくる。どちらも実際的な役に立つというわけではないにもかかわらず、ときに人々から頼りにされ、また心の支えとなってくれるものなのだ。そうしたペットでありながらも、あくまで猫としての高い自尊心とともに生きるトマシーナが、複雑な人間関係にどのような影響をおよぼすことになるのか、猫好きな人もそうでない人もぜひたしかめてもらいたい。(2013.08.26)

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