【岩波書店】
『日本の思想』

丸山真男著 



 言うまでもないことだが、私が日本人として生まれ育ってきた以上、日本という国がもつもろもろの要素――たとえば言語、習慣、文化、教育などの影響から逃れるのは非常に難しい。それは逆に言うなら、私たちがまぎれもない個性と思い込んでいるものの大部分が、じつは個性でもなんでもなく、その人の周囲にあるあらゆる環境によってなかば強制的に付加されたものにすぎない、ということを意味している。よくよく考えればそれは当然のことで、たとえば私がものを考えるさいには、必然として日本語の文法をもちいているし、もちいざるを得ない状況に置かれている。しかもそれは、個人の意思で選択できるようなものではない。私たちは、生まれる時代や地域を意図して選ぶことはできないのだ。

 私たちが「個性」だと考えているものは、じつはさまざまなバイアスのかけられた、非常に偏ったものの見方でしかない、というのが構造主義の本質であるが、重要なのは、個人がその「偏見」をどれだけ意識しているかという点にある。私という人間のものの考え方、自分の目に見えるものや聞こえるもの、あるいは感じ方は、どうしたって日本人的なものの枠にとらわれてしまう。であるなら、そうした「偏見」を意識したうえで、なおかつ自分自身を知るという意味においても、日本という国で生きる人々の思想がどのような形を成しているのかを知ることは有用なものとなるに違いない。私が今回、本書『日本の思想』を読もうと思った背景には、そうした事情がある。

 本書は表題作を含めた四つの論を収めたもので、『日本の思想』および『近代日本の思想と文学』が論文形式、『思想のあり方について』と『「である」ことと「する」こと』のふたつが講演形式となっているが、いずれの論においても共通している軸は、明治時代からはじまった日本の近代において、それ以前からつづいてきたある種の伝統的ものの考え方がどんなふうに変容していったのか、あるいは変容していかなかったのか、という点である。本書でも指摘されているが、日本の近代というのは、あらゆる分野における西欧化が急速に進んでいった時代であり、それらの影響を思想という枠でとらえていこうという試みが本書のテーマと言うことができる。

 日本の現代を考えるうえで重要な時代の転換点として、明治維新と第二次世界大戦の敗戦のふたつがある。本書ではおもに前者に焦点をあてているわけだが、本書の論を理解するために重要な要素となるのが、そのタイトルにもなっている「である」思想と「する」思想である。

 自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。

(『「である」ことと「する」こと』より 下線は原文では傍点)

 江戸時代以前の近世日本は、典型的な「である」社会が浸透していた世界である。そこでは士農工商といった身分制が大切にされ、人々は何をなすかというよりも、どの身分に属しているかという点が重要な価値判断の材料となっていた。武士は武士らしく、町人は町人らしくという価値観、そして同じ身分のなかにおいても、どの家系に属しているか、あるいはどこの土地で生まれたかといった、生まれながらにして与えられたものによって、人々はどのようにふるまうべきかという道徳が確立されていた。ところが、鎖国を解いて近代に突入した日本がまのあたりにしたのは、西欧列強が虎視眈々と植民地を拡大していく帝国主義の台頭という現実だった。これからの時代において日本が日本という国でありつづけるためには、少しでも早く西欧列強に肩を並べるような、国際的にも強い国の枠組みを築き上げることが肝要であり、それゆえに明治政府はあらゆる分野において西欧の技術や教育を早急に吸収し、自分たちのものにしていく必要に迫られていた。

 ところが、その頃の西欧諸国で確立されていたのは、市民革命などの運動によって獲得されていった「する」社会を基礎に置くものであり、当然のことながら法律や教育、文化、思想といった分野においても、そうした「する」社会の影響を大きく受けている。キリスト教のような精神的機軸をもたない日本は、外来のものを取り込むという点においては非常に柔軟な一面をもつ国民性であるが、本来であれば市民たち下層の人々から起こってしかるべき民主的「する」価値観――身分や家柄のような「である」枠ではなく、個人として何を「する」かでその人間的価値を判断するという考えが、日本においてはまさに上から与えられるという形で成立してしまった側面がある。このあたりの歴史的事情については、繰り返すまでもない常識であるが、本書では今の日本がかかえるさまざまな問題の根本にあるものとして、日本の伝統として根強い「である」行動様式と、近代以降に急速に取り入れられてきた「する」行動様式が、さしたる体系化も深い思索もなしにごたまぜになっているという点を強調している。

 本書をとらえる象徴的なキーワードはいくつか存在する。たとえば『思想のあり方について』に出てくる、社会と文化を定義する枠としての「ササラ型」と「タコツボ型」という考え方は、たとえば学問などの各分野が専門化していくさいに、その根幹のところでなんらかの共通する基盤があるかどうかを分別のキーとするものであり、日本社会はもっぱら「タコツボ型」、つまり分野間の交流が少なく、分野独自で専門化していく傾向をもっているものとして定義しているのだが、このあたりの考え方も、日本の「である」行動様式を深く意識させるものがある。また「物神化」という単語もよく出てくるが、これは西欧の思想を取り入れるさいに、その思想が成立するために本来もっていた歴史的背景を無視し、その成果だけを取り入れていった結果として生じる、その思想を無批判に絶対視してしまう傾向を指すもので、これをもっとも象徴するのが、明治憲法を制定するときに、西欧におけるキリスト教という精神的機軸の代用品として取り入れた「国体」としての天皇制だと本書は説く。

 この「である」行動様式が日本人のなかにいかに深く刻み込まれているかという点については、たとえば「肩書き」がやたら重要視されるという傾向などを見ればすぐに納得でぎるものがあるが、日本の近現代というものは、「である」思想と「する」思想のあいだで人心がいかに揺れ動いていったかの歴史であるといっても過言ではない。そう考えると、たとえば日本で一時期マルクス主義がやたらと持ち上げられ、どころか社会のなかで支配的な立ち位置とさえなり、労働争議や学生運動などの原動力になった要因として、マルクス主義のなかにある系統だった「する」思想が、それまでほぼ無自覚であった「である」思想の弊害を浮き彫りにしたというのがあり、またそれが当時の知識人にとってどれほどセンセーショナルなものであったのかが想像できるようになる。

 キリスト教のような絶対者が不在で、外来のものはなんでも取り込み、しかもその取り込んだものを系統立てることなく、雑多なもののひとつとして位置づける雑居性――そうした国民性が過去の日本の歴史においてどのような作用を及ぼしていったか、そしてその結果として、現代にどのような問題を引き起こしているか。本書にはそうしたテーマを探るだけのものがたしかにある。日本は民主主義の国であるという建前に、どこか違和感を覚えている人がいるとしたら、その違和感はけっして間違いというわけではない。上から与えられるだけの「民主」ではなく、「する」行動様式とともにある民主にいまだ至らずにいる日本という国について、本書はどうしたって意識させられずにはいられなくなる(2013.03.23)。

ホームへ