【原書房】
『この国。』

石持浅海著 



 人間ひとりの力でできることなど、たかが知れている。たとえば私自身は、米を栽培することはできないし、家を建てることもできない。服をつくることもできなければ、電気を起こすこともできない。大好きな本だって、自分ひとりではどうしたって書けやしない。だからこそ人間は集団をつくり、社会を構築して多くの人の力を効率よく運用させることで、その無力さをおぎない、発展していくことができた。そもそも社会の成り立ちというのは、個々では無力な人間の相互扶助の精神が原点としてあるはずである。だが、いったんその仕組みが確立されてしまうと、ある程度は人間の思いとは無関係に機能していくものであるがゆえに、お互いがお互いを助けているという形が見えにくくなってしまう。

 たとえば鉛筆一本つくるにしても、そこには膨大な人間の手がかかわっている。原料をつくる人、運ぶ人、それぞれの部品をつくり、組み立て、梱包し、出荷する――そうした過程のそれぞれに、なんらかの形で誰かが役目をはたすことによって、はじめて鉛筆という道具が完成する。私たちは鉛筆がほしいとき、わざわざ原料をひとつひとつかき集めてつくりあげていく必要はない。社会で流通する共通の価値をもつ貨幣で鉛筆を買えばいいだけのことだ。それは非常に効率的ではあるのだが、そこに関わっているはずの多くの人たちとのつながりは、その分希薄になっていく。結果、自分と同じ感情をもつはずの人間を、目的を果たすために利用する道具か何かのように思ってしまう。

 鉛筆をつくるという目的を至上とした瞬間、そこにかかわる人間ひとりひとりの価値は、たんに交換可能なその他大勢のひとりという、無力な存在と化してしまうのだ。それは社会の本来のあり方からすれば、どこかいびつなものに見えたとしても、けっして不思議ではない。

 この国では、いつも誰かが誰かを利用している。狡猾な陰謀ほど成功につながる。陰謀に陰謀が絡み合って、この国の繁栄はあるのかもしれない。

 本書『この国。』は五つの作品を収めた連作短編集という形をとっているが、全体としては、むしろひとつながりの物語というとらえかたをすべき作品だと言える。それは、たとえばどの短編でも登場する治安警察官の番匠の存在や、彼が敵対するテロリスト集団とのつながりという、物語全体を貫く軸の太さというのもあるが、それ以上に特長的なのが、本書の舞台となる国そのものである。それは、私たちがよく知っている日本という国を土台としていながら、歴史の大きな転換期において異なる選択肢をとった結果、別の進化をとげた生物のごときパラレルワールドとなっている。

 その国では、近世の二百年以上におよぶ鎖国政策から、欧米列強の圧力によって開国させられた。そこまではリアルな日本と変わらないのだが、その後新政府がとった選択は、欧米列強につづいて植民地政策に打って出ることではなく、他国と争わないようにしながらひたすら殖産興業に力を入れる、というものだった。したがって、本書における日本は一度も他国と戦争をしたことがない。ゆえに敗戦を経験したこともなく、軍隊も現在まで存続している。世界のいかなる戦争においても常に中立、不参戦をとなえ、戦争をする国には兵ではなく物資を売りつけることで、世界第二位の経済大国にのしあがってきた。そして、その国の方針を支えているのが、開国後からつづく一党独裁政権の存在である。

 独裁政権というと、ごく一部の権力者が人民の自由を押さえつけてる、ひどく窮屈な支配体制という印象を受けるかもしれないが、本書を読んでいくかぎりにおいて、そうした雰囲気はほとんど感じられない。独裁政権とはいえ、法治国家という原則は守られており、犯罪はごく少ない。土地も資源もとぼしい国でありながら、教育水準は高く、頭脳国家として国際社会的にも評価は高い。何より、国を牛耳っているはずの独裁政権の中枢にいる人物の姿が、巧妙に隠蔽されているところがあり、それだけで一党独裁というイメージがかなり緩和されて表現されているところがある。

 だが、それでも読者は、本書のなかからこの国のありかたについて、違和感を覚えることはできるし、それこそがまさに本書の本領だとも言える。この国ではもっとも重い罪は国家反逆罪であり、そのための公開処刑が認められており、高い教育水準はそのまま国民の能力を徹底して管理することにつながり、売春宿すら秘密裏に国が運営しているという事実――そこから読み取れるのは、すべてが「国の発展のため」という、ただひとつ方向に向けられているということである。それは同時に、国のためにならないことは、まったくの無価値とは言わないまでも、きわめて低い評価しかされない、ということでもある。

 本書の短編のなかで通しで登場する番匠は、その独裁政権側の人間だ。だが、彼個人はこの国のあり方に多少の疑問をいだきつつも、国そのものが国際的にも発展しているという事実や、国の秩序がいろいろな部分で保たれているという事実に満足し、またそんな国に誇りすらもっている。言ってみれば、彼はけっして悪い人間ではないのだ。いっぽうのテロリスト集団のほうは、独裁政権を打倒すべく立ち上がった憂国の士であり、たんに秩序を乱す輩として書かれているわけではない。彼らもまた、悪い人間というわけではないのだ。

 どちらも、けっして私利私欲のために活動しているわけではない。にもかかわらず、どちらの考えにも迎合できないという感覚が読者をとらえることになる。その最大の要因は、上述の引用が如実に物語っている。番匠もテロリストたちも、そして彼らにかかわることになったすべての登場人物も、自分以外の他者を友人とか仲間とかいった、人間的ではあるが非生産的な関係ではなく、目的のために利用する存在としてきわめて合理的な割り切りをしており、しかもそのことについてほとんど疑問をもっていないのだ。そしてそれは、自分から戦争をしかけることはしないが、戦争をしている国々を利用して利益を得ることに終始している「この国。」のあり方を体現している。

 経済は発展し、他国と戦争を起こさず、国民の生活水準は高い。犯罪発生率は低く、麻薬は水際で阻止している。失業率はなんと一パーセント以下だ。これほど成功した国は、他にない。それなのに、なぜ体制を覆そうとする? 一党独裁の、何が悪いのか。

 人間は本来自由な存在である、自由であることそのものが正義だと説いたのは、辻邦生の『背教者ユリアヌス』であるが、あらゆる強制を含まない状態というのは、ある種の混沌であり、秩序とは相反する状態でもある。自由であるということは、人を善にも悪にも走らせるということであり、あらゆる方向性、あらゆる価値観を認めることと等しい。それは、「国の発展のため」というひとつの方向を目指す側としては、きわめて非効率的なことであり、またその認識はきわめて正しい。だが、人間は効率化だけで生きているわけではない。あらゆる自由のなかから、とんでもない悪行が生まれるかもしれないが、その逆だってありえることを、私たちはよく知っている。

 番匠とテロリストとの頭脳戦、裏のかきあいやとっさの機転、何重にもはりめぐらされた罠をいかに突破するかといった、ある種のコン・ゲーム的な面白さのある作品であり、それゆえにミステリーとしても読むことができるのも事実だが、本書の真の主役は、やはりそのタイトルが示す『この国。』そのものである。そこで生きる人たちは、はたして私たちとどこが違うのだろうか。(2011.04.30)

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