【早川書房】
『料理人』

ハリー・クレッシング著/一之瀬直二訳 



「料理が好きか」という問いかけには、常にふたつの意味が含まれている。つまり、「料理をつくるのが好きか」という意味と、「料理を食べるのが好きか」という意味だ。なかには「食べるのは好きだけど、つくるほうはちょっと……」などと思っている方もいらっしゃるかもしれないが、じつはこと料理に関して、つくることと食べることは、同じ本質の別の側面でしかないのではないか、と思うことがある。なぜなら、うまい料理を食べたいといつも思っている人が、ついに自分の納得いくような料理をつくりはじめる、というのはよくある話だし、またうまい料理をつくることができる人というのは、何よりうまい料理を知っている人にほかならないからだ。

 人間は性欲が減退すると食欲に走るようになる、という話をどこかで聞いたことがあるが、そもそもうまい料理を食べるのは楽しいし、うまい料理を自分の手でつくり、人に喜んでもらうのもまた楽しいものである。だが、ただ空腹を満たすための料理ではなく、その味、見た目、匂い、歯ごたえなどを楽しむための贅沢な料理というのは、つくるにしろ、食べるにしろ金がかかるものだ。こういう点でも、この両者は同じ共通点をもっていると言うことができそうである。

 料理をつくる側と、料理を食べる側――本書『料理人』の世界における両者の関係は、当初ははっきりと区別されている。それは、前者があくまで雇われる側であり、後者が雇う側であるという、金銭的な面での厳然たる上下関係だ。こうした設定を頭に入れて本書を読み進めていくと、その中に描かれている、ある意味ブラックなユーモアと皮肉な見えてくることだろう。

 物語の舞台がいったいどこにあたるのか、また時代がいつなのか、本書の中では明確にされてはいない。ただ「シティ」と呼ばれる都会と、「コブ」という名の一地方の田舎町があり、その「シティ」からひとりの料理人がやってくるところから物語ははじまる。彼の名はコンラッド。全身黒づくめの、痩せこけてひょろりとした長身のその男は、コブのなかでもっとも有名な資産家のひとつであるヒル家の雇われ料理人として、この田舎町にやってきた。いつも居丈高で無愛想、あからさまに他人を見下したような態度をとる、性格的にはなんとも嫌な人間ではあるが、その料理の腕前は超一流で、それまでコブの田舎料理しか知らなかったヒル家の人たちは、すっかりコンラッドの料理に魅了されてしまう……。

 シティでも有力な著名人と懇意な間柄にあり、その手から生み出される料理は、狂暴な犬さえも手なずけてしまう絶品ばかり。しかも食餌療法にも明るく、ただおいしい料理を食べているだけなのに、それまで肥満体質だった女性がみるみるうちにスリムな体型へと変貌し、逆に痩せっぽっちだった人はみるみるうちに肉付きがよくなり、病気がちな人は日ごとに健康を取り戻していく。料理全般はもちろんのこと、上流階級の洗練されたセンスや食材を見る目も超一流の料理人コンラッド――だが、この一見非のうちどころのない完璧な料理人は、どうも、何かが怪しい。しかも、それは料理の腕前とか知識とかいった技術的なものがもたらす怪しさではなく、むしろ完璧であるがゆえの怪しさ、とでも言うべきものだ。

 コンラッドは、自分の料理人としての力量を誰よりもよく知っている。彼の過剰なまでの自信満々の態度が、たんなる虚勢や見栄などではなく、現実として身につけた技術と知識と才能によって裏づけされたものであることは、本書の中に出てくる数々のエピソードを読めばわかることだ。その気になれば、どんな人間でも満足させ、幸福に導くことさえ可能なその料理人の腕が、何とははっきりわからないが、何か間違った方向に振るわれているのではないか、という漠然とした疑問――本書にはコンラッドの心情についてははっきりとは書かれていないが、ひとつだけ明らかなのは、彼がこと料理というものについて完璧であるがゆえに、何もかもが完璧でなければ気が済まないという、ある意味で恐ろしく傲慢な性格だ、ということである。

 私の友人で猫を飼っている人の話で、ある日、普段より高級なチーズを何気なしに食べさせたところ、それ以降、以前なら喜んで食べていた安物のチーズには目もくれなくなってしまった、というものがあるが、本書を読んで私がふと思い出したのは、安物のチーズには目もくれなくなってしまった猫の姿だった。超一流の料理人であるコンラッドが生み出す、超一流の料理――だが、より完璧を求める彼の欲望はとどまるところを知らない。一流の料理には一流の食器が必要だ。もちろん食前酒も一流のもの。給仕する者たちも完璧なテーブルセットや客の接待ができる一流の作法を身につけなければならないし、料理を出す場所も当然それにふさわしくなければならない。そうなれば、それを食する人も、それにふさわしい人物でなければ……。こうした思考がコンラッドを中心にして、その周囲の人たちを見事に巻き込んでいき、最後には金銭的な面で厳然と存在していたはずの上下関係が知らないうちにひっくり返ってしまっている、という皮肉、これこそが本書の最大の特長であり、また当初のコンラッドの黒づくめの服装に象徴される、料理のもたらす黒い一面でもあるのだ。

 おいしい料理がもたらす幸せや、不思議な魔法のような効果、という意味では、たとえば北森鴻の『メイン・ディッシュ』、あるいはラウラ・エスキヴェルの『赤い薔薇ソースの伝説』といった作品が挙げられるだろうが、本書はまさにそうした作品とは対極を成す作品だと言えよう。そして、さらに私が恐ろしいと思うのは、本書のラストでとりあえず物語としてはオチがついてはいるのだが、よくよく考えてみると、このラストはたしかにラストではあるが、それは容易に物語の冒頭へとつながっていく可能性のあるラストなのだ、という点である。コンラッドがこの田舎の町へ来る以前に何をしていたのか――本書の冒頭で、ヒル家に雇われるさい、その執事はコンラッドに「財産を使いきった、というわけだな?」と尋ねていたが、その使いみちが、もし本書のラストのようなものだったとしたら、と考えたとき、読者は本書のブラックなユーモアの、本当の意味を知ることになるのだ。

 本当にうまい料理には、たしかに人々を幸せにする力がある。だが、薬も量を間違えれば毒となるように、あまりにもうまい料理にこだわりすぎてしまうと、逆にそれを食する人々を不幸にしてしまうこともある。料理というものがもつ黒い一面にとりつかれてしまった人たちの姿をまのあたりにして、はたしてあなたはどのような感想をもたれることだろうか。(2003.07.02)

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