【メディアワークス】
『シアター!』

有川浩著 



 人間社会というものは貨幣経済によってある程度成り立っているところがあり、生活していくためには金を稼がなければならない。必要なもの、欲しいものがあるなら、本来であれば自分でつくるか、誰かにつくってもらうしかないのだが、貨幣という、経済が成り立っている社会における約束事が成立しているおかげで、私たちは無駄な交渉ごとや物々交換の手間をはぶき、貨幣と交換という形でさまざまな物やサービスを手に入れることができる。そしてそれゆえに、物やサービスにつけられる値段というのは、人間社会における有用性の具体的なパラメータともなっている。

 ところで、人が何に金を使うかということについて、「必要なもの」と「欲しいもの」という二種類の表現を使ったが、このふたつは当然のことながら、異なる意味合いをもっている。衣食住や医療、あるいは電気や水といったものは、私たちが生活していくために最低限「必要なもの」であり、好き嫌いに関係なく金をかけざるを得ない部分であるのに対して、「欲しいもの」というのは、基本的に個人の欲望に起因するものだ。そしてそれらの物やサービスは、直接生きていくのに関係ないものであるだけに、その価値を人々に認めてもらうのはなかなか難しい。たとえば、私は小説などの本を読むのが好きで、その購入のために金を使っているが、それでも当然のことながら買う本の取捨選択をしているし、本を作る側、売る側にしても、いかにその価値観を高めるか、どのようにして読書家にアピールしていくかということに腐心する。

 もし好きなことで商売しようとするなら、最低限その「好きなこと」が生み出すものに対して、社会にその価値を認めてもらわなければならないことになる。そしてそのための能力は、おそらく「好きなこと」のために必要な能力とはまた別物だ。本書『シアター!』は小さな劇団をとり扱った作品であるが、物語の中心は役者たちの形成する内輪の世界にではなく、あくまでその外側に置かれている。そしてそれゆえに、劇団「シアターフラッグ」は否応なく経済活動の枠のなかに引きずり込まれていくことになる。

「黒字が出せる劇団になるって話だったな。たった三百万、二年で返せないならプロになんかなれるわけがない」

 住宅施工会社の営業をしている春川司には、小さな劇団を主宰している弟の巧がいたが、その劇団「シアターフラッグ」は三百万の借金をかかえ、このままでは解散しなければならない事態に陥っていた。その金の無心に泣きついてきた巧に対して、彼は金を貸す代わりに、ある条件を突きつけた。二年以外に、劇団の収益のみで三百万を返すこと――それは、公演で今まで黒字など出したことがなく、またそれでも「好きなことだから」と見て見ぬフリをしていた劇団員にとっては、とてつもなく高いハードルだったが、もし返せなければ劇団を潰すという約束がある以上、なんとしても成し遂げるしかない。はたして劇団「シアターフラッグ」は、黒字経営へと転換することができるのか……。

 父親が売れない役者であり、母親から三行半を突きつけられたという過去のせいか、司は演劇の世界から遠いところに身を置いていたが、巧には脚本家としての才能があったらしく、小さい頃に通った演劇のワークショップでその楽しさを知り、それまでいじめられてばかりで登校拒否状態だった学校生活も大きく変わっていったという経緯があった。今回の劇団の借金騒動は、食えもしない演劇をつづけている巧への最後通牒という意味合いを前面に押し出してはいる司ではあるが、それが非常に遠まわしな弟への激励であり、また過激な後押しであることは言うまでもない。なぜなら、劇団のかかえこむことになった三百万の借金のそもそもの要因は、巧が「シアターフラッグ」をプロの劇団へと変えるために、それまでの方針を大きく転換させたことにあったからだ。

 こうして、表向きは債権者として劇団の資金繰りのいっさいを管理する立場に立った司が、劇団の黒字経営のために奮闘するという形で、演劇独自の世界を描いていくという視点が本書の大きな特長のひとつである。彼は基本的に、演劇については素人である。逆に言えば、彼が弟を支援するためには、演劇とは直接結びつかない分野、すなわち経営の部分を手がけるしかない。社会人経験者が誰ひとりおらず、それまでサークルの延長というノリでやってきた劇団員とは、その視点も価値観も異なる司という異端が、内輪で「鉄血宰相」と呼ばれながらも、劇団員たちの甘えを粉砕し、否応なく彼らの尻を叩き続ける様子が無理なく成立しているのは、ある意味本書の設定の妙である。本来であればなかなか本書のようにうまくはいかないと思ってしまうのだが、借金の債権者という立場と、巧への兄弟愛、そしてその弟にプロの劇団への転換を決意させた羽田千歳の存在が、牽引役となって物語を引っ張っているのだ。

 羽田千歳はプロの声優であり、その彼女が「シアターフラッグ」のコンセプト――「気軽に楽しめて分かりやすい演劇」を認めて劇団員に応募してきたからこそ、巧はプロの劇団としての夢を目指すことになったのだが、逆にそのせいで劇団が大きく分裂することになり、今回の借金騒動が起こったとも言える。司は当然のことながら、声優としてのネームバリューを最大限利用して公演のアピールをするし、巧もまた彼女を中心とする脚本を書くことになるが、同じ劇団員のなかでも、なかなか割り切れない思いをもつ者は多い。そしてもちろんのこと、羽田千歳も自分の今後についていろいろ悩みを抱えていたりもする。そうした登場人物の造詣についてもうまいところのある本書であるが、春川司と羽田千歳というある種の異端をまじえ、はたしてどのような演劇が創作され、その結果がどうなっていくのか、というのが本書の読みどころでもある。

 本書を読み進めていくとわかってくることだが、巧が率いる劇団「シアターフラッグ」は、けっして才能のない集団ではない。逆に公演となれば千人単位で集客を見込めるだけのキャパシティをもつ劇団なのだ。だが、ただ才能があるだけでは、経済活動を成立させることはできないし、そもそもプロになるという強固な意思がなければ、いつまで経っても中途半端なままでしかなかった。そういう意味で、本書は巧たちがはじめて、その能力をフルに活用して人間社会へ打って出る―― 一人前の大人としての一歩を踏み出すという成長物語としての要素をもつ作品だと言うことができる。今はまだその第一歩にすぎない、なんとも弱々しい足どりでしかないが、その今後におおいに期待したいところである。(2010.07.18)

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