【角川書店】
『The S.O.U.P』

川端裕人著 



 コンピュータの世界における「ハッカー」と「クラッカー」の使いわけがより厳密になされるようになったのは、おそらくほんの1、2年ほど前のことではないかと思う。私自身、このふたつの単語の違いに自覚的になったのは、つい最近になってからだ。それ以前は「ハッカー」と言えば、コンピュータ技術を悪用して社会を混乱におとしいれる者、という悪い意味で使われるのがあたり前だったし、1999年に刊行されたスティーブン・キャネルの『殺人チャットルーム』でも、悪者としての「ハッカー」という使われ方をされていた。念のため説明しておくと、そのような悪い意味は現在「クラッカー」という単語に置きかえられ、「ハッカー」とは、おもに持っている技術の高さと情熱の強さを指し示す言葉、つまり、現在あるものを分析し、より良いもの、人々の役に立つものへと改良をくわえていく者という意味へと変化している。ハッカーであることは、けっして一方的に悪者であるというわけではないのだ。

「そして、あなたは、ネットワーク世界の魔法使い(ウィザード)」

 魔法使い、英語ではいろいろな呼び方があるが、とくに「ウィザード」という名称は、長き年月の研鑽によって膨大な知識と世界の真理を得るにいたった尊敬すべき賢者、という意味をもつ。今回紹介する本書『The S.O.U.P』は、そういう意味ではまさに「ネットワーク世界の魔法使い」である「ハッカー」と、世界を混乱させる「クラッカー」の使い分けにもっとも意識的な作品であり、またそこから最終的には「ハッカー」の名誉復権へとつながっていく物語でもある。だからこそ本書の冒頭は、周防巧という凄腕のハッカーを登場させ、「EGG」と呼ばれるクラッカー集団に戦いを挑むという場面からはじまるのである。
 経済産業省の情報政策局に所属する小杉礼子からの依頼により、省内のサーヴァにクラッキングをかけている「EGG」の正体をあばくべく行動を開始した巧だったが、相手は見事なまでに巧の追跡を逃れ去っただけでなく、彼に挑戦状ともいうべきメッセージを残していた。それは、かつて世界じゅうを熱狂させたRPGソフト「The S.O.U.P」をともに開発した旧友、栗本光からの、助けを求めるメッセージだった……。

 本書のタイトルにもなっている「The S.O.U.P」は、もともと巧のプログラム技術に光のシナリオ、そしてもうひとり糸居重雄のグラフィックによって完成したファンタジー世界を冒険するRPGで、ベースとしてトールキンの『指輪物語』とル・グインの『ゲド戦記』の世界観が反映されている。この「The S.O.U.P」の世界は、最終的にはオンライン・ゲームとして人々の賞賛を得ることになるのだが、巧はこのゲームの完成のために「アナザ・ワールド社」という会社まで立ち上げたにもかかわらず、三年前にその会社を辞め、今では部屋に閉じこもってセキュリティ・コンサルタントまがいの仕事を請け負っている。なぜ巧は会社をやめゲームの製作から身をひいたのか、そして「The S.O.U.P」の開発の基礎を担った三人のあいだに、いったい何があったのか――むろん、その正体についても謎の部分が多い「EGG」の真の目的や、行方不明になっている光のことなど、気になる謎はいくつもあるが、こと巧に主体を置いて考えれば、重要なのは彼自身の過去にまつわる秘密であり、彼が過去にやり残してきたどんなことが、今の状況を引き起こすにいたったのか、という点だと言える。そういう意味では、本書は「ハッカー」の復権の物語であると同時に、巧というひとりの人間が、過去に残してきた何かに対してあらためて決着をつけるための探索の物語でもある。

 彼がなんとか指輪を破壊するための旅を完遂できたのは、彼が力を持たず、望まず、足ることを知った、小さき人だったからだ。――(中略)――フロドはただ、その小ささゆえに、偉大だったのだ。
 巧は自分もそれと同じで良いと思った。何か際だったことを成し遂げることがあるとしたら、それは自分自身の小ささゆえなのだ。

 ここ10年ほどのあいだに急速に普及していったインターネット――あくまでヴァーチャルな世界であるにすぎないこのネットワーク網が非常に便利なものである反面、ウィルスやサイバーテロといった悪意の攻撃がいかにリアルな世界に重大な障害をもたらすか、という危険性については、本書にかぎらずさまざまな小説で取り上げられてきたことである。インターネットの世界では、リアルな自分をさらけだす必要はない。ネット上において、人々は自分以外の誰かを演じることができるし、また不特定多数のなかにまぎれこむこともできる。本書の大きな特長として挙げられるのは、インターネットの世界を、あたかもRPGの世界のように、リアルな自分ではない誰かを演じることができることに、とくに重点を置いているという点だ。

 最初、巧は光からのメッセージにしたがって、長く離れていた「The S.O.U.P」の世界にアクセスする。その世界の住人として作成したキャラクター(本書ではアヴァターと呼ばれる)を演じつつ、探索の旅をつづける――その行為はまさにコンピュータRPGである。だが、彼は次第に、「The S.O.U.P」の世界がたんなるゲームであることを越えて、まさにひとつのリアルな世界であるかのように、人々が生活を営む場として機能しつつある、という事実に気づくことになる。そして、「The S.O.U.P」の世界の外には、まさに世界じゅうへとつながっているインターネットの広野がある。そのとき、「The S.O.U.P」のアヴァターたちにもし自意識というものがあったとして、インターネットの世界はどのように映るのだろうか。

 本書にはコンピュータやネットワークが抱えるテーマについて、多くのものが含まれているが、前述したように、この手のテーマはこれまで何人もの作家が挑戦してきたものである。とくにそのテーマ性でいえば、井上夢人の『パワー・オフ』と似通った部分があるのはたしかだが、本書の場合、「The S.O.U.P」というオンラインゲームを踏み台に、ネットワークそのものをヴァーチャルなものではなく、最終的にはもうひとつの世界、アナザーワールドともいうべき世界として位置づけようとする方向性を示している。インターネットをリアルな世界の内部にある仮想世界、という位置づけがほとんどだったそれまでとは違い、アメリカの副大統領にインターネットを「フロンティア」と呼ばせた本書の著者が、少なくともインターネットのなかにひとつの未知なる世界を見出していることは間違いないだろう。

「世界の構築」は、ハッカーの世界でも高く評価される仕事だ。例えばインターネットを創った連中は、後にサイバースペースで活躍するようになったどんなハッカーよりも、その仕事から充実感を得ただろう。そして、それに見合う尊敬も勝ち得た。

 インターネットがひとつの世界であるとしても、それはまだ生まれたての、きわめて不安定な世界だ。「ネット依存症」なる新しい症状や、クラッカーの存在などは、そうした新しい何かが生まれるときに必ず派生するものでもある。ハッカーがハッカーであることの意味について、本書はあらためて考えさせられるものをその内に含んでいる。(2004.10.01)

ホームへ