【新潮社】
『海に帰る日』

ジョン・バンヴィル著/村松潔訳 



 人が過去を振り返りたいと思う時というのは、どういう時なのだろうか、とふと考える。過去に起こった出来事というのは、けっしてなかったことにすることはできない。その強固な不変性ゆえに、私などは自身の過去、ともすると嫌な思い出やとんでもない失態を思い出すきっかけにもなる回顧という行為を、今もなお躊躇せずにはいられないのだが、少なくとも、そうした過去の積み重ねが今の自分を形成していることも事実であり、それは自分がたしかにこの世界に存在し、生きているということへとつながっていくものでもある。であれば、けっして変えることのできない過去を、あえて振り返るという行為というのは、ともすると揺らいでしまいがちな自身の存在を、たしかなものとしてこの世界にとどめておくためのものだと言うことができる。

 常にその一瞬一瞬で過ぎ去っていき、とらえどころのない現在や、いまだ確定されていない、不安定な未来――私が小さい頃にカラー図鑑か何かで見た未来予想図が、今の視点からすれば回顧するにたる過去の遺物と化していることを考えれば、人々が想像する未来というものも、彼らが経てきた過去の束縛からけっして自由というわけではない。だが、同じように過去という時間は、まったく揺らぎを起こさないものなのだろうか。私たちが過去を振り返るとき、その記憶はどこまではっきりしたものとして思い出せるものなのか。あくまで主観のなかでしか生きられない私たちは、たしかに体験し記憶してきたはずの自身の過去について、もしかしたら無意識のうちにその一部を改竄してしまっている、という可能性はないだろうか。

 わたしは将来を予想していたというより、過去を懐かしんでいたと言うべきなのかもしれない。なぜなら、わたしの想像のなかで来るべきものとされていたのは、現実には、すでに過ぎ去ったものだったのだから。――(中略)――わたしが待ち望んでいたのは現実の未来だったのか、それとも、未来の彼方にあるなにかだったのか?

 本書『海に帰る日』は、ある過去の追憶の物語というべき作品である。ただし、本書において一人称の語り手となっているマックス・モーデンにとって、非常に重要なものとして想起されてくるその過去は、しかし「追憶」という言葉で表現できるようなもの、懐かしむべきようなものとしてとらえられているわけではない。浮かび上がってくる断片的な記憶を思いつくままに語り、そのいっぽうで現在の自分の見ているものや聞いているものを、何の説明もなしにつないでいく本書の、そのとりとめのない独白めいた文体を読み進めていくことで、読者はこの語り手が最愛の妻アンナを病気――おそらく末期ガンかなにかで亡くした、年老いた男やもめであり、彼が今滞在している家が、かつて子どもの頃に彼が「シーダーの家」と呼んだサマー・ハウスであるといった情報を得ることができるようになる。伴侶を亡くしたショックで悄然としていた彼は、ふいにこの「シーダーの家」にまつわる自身の過去の記憶を思い出し、まるでその記憶に引きずられるようにして、彼の故郷でもある海辺の小さな町にやってきていたのだ。

 物語のなかで、マックスの娘であるクレアが指摘し、彼自身もそうだと認めているとおり、語り手の意識は常に過去の記憶に向けられている。そういう意味において、本書の時間は停滞しており、そこから何かが生まれたり、動き出したりするような気配はない。むしろ、彼の過去が――思い出のなかにある過去の記憶が、まるで現在という時間を侵食していくかのような雰囲気は、ふだん私たちが意識している過去、現在、未来という時間の流れと、それがもたらすはずの秩序から私たちを乖離させ、おおいに幻惑し、そして翻弄していく。そんな本書を評するにおいて、重要な点があるとすれば、それはやはり、語り手の過去のなかにこそある。

 語り手が想起する過去のなかで、中心を成しているものがあるとすれば、ひとつは妻アンナにかんする記憶――それも、病気が宣告され、その病気がじっさいに彼女の命を奪うまでの、十二ヶ月におよぶ月日の記憶であり、もうひとつは語り手が子どもの頃の記憶――とくに、彼が親しく付き合うようになっていたグレース一家との思い出である。彼が今滞在している「シーダーの家」は、かつてグレース一家が暮らしていた場所でもあるのだが、妻を亡くして悄然としていた彼が、なぜその半世紀も昔の記憶を思い出し、またその記憶にすがるかのように、かつての思い出の場所に自身を導いていったのか、という謎がそこにはある。

 人間にとって死とは何なのか――それは、けっして容易に答えの出るものではない深遠な命題のひとつであるが、こと本書において見えてくるのは、記憶の消滅という側面である。アンナは語り手の伴侶として、人生の長い期間を語り手と共有してきた人物である。もし彼女が死んでしまったとしたら、彼女のなかにあったはずの語り手の記憶もまた死んでしまうことになる。自分という存在をたしかに覚えていたはずの他者が、この世界から消えてなくなるということ――人と人との関係性のなかで生きている私たちにとって、過去というものがそうした関係性の歴史であるととらえるなら、それはたんに他者の死というだけでなく、自分の一部の死だということである。

 本書のなかで、語り手は自身の個性を否定している。彼の言葉を借りるなら、個性とは、自身の生まれや育ちによって与えられた「感受性」や「性癖」といったものの寄せ集めだということになる。であるとすれば、妻であり、長く彼と生活をともにしてきたアンナの死は、自分がたしかに自分であるという拠り所を失うに等しい。そしてそう考えると、語り手が妻の死後、あらたな拠り所を求めて自身の遠い過去のなかに――まだ幼かった自分に大なり小なりの影響をおよぼしたグレース一家のことを掘り起こそうと行動を起こしたというのもうなずけるものがある。

 しかしながら、本書のなかで展開する、けっして秩序づけられていない記憶の羅列を追うかぎりにおいて、語り手の思惑はけっして成功したとは言い難い。「シーダーの家」は、たしかに残っていた。だが、そこにあるのは過去の家ではなく、あくまで現在という時制のなかにある家であり、語り手の記憶のなかにある家とまるっきり同じというわけではない。そしてそうである以上、語り手がたしかに自分自身を保つのに、劇的な役割をはたすというわけには、やはりいかないのだ。

 かつて語り手は、ミセス・グレースことコンスタンチンに憧れ、それから彼女の娘であるクロエへとその愛情を移していく。そうした自分の過去の心の動きを鮮明に思い出しつつ、しかしもっとも肝心な記憶については、なかなかその核心に迫ることができずにいる。はたして、グレース一家との過去に何があったのか、そしてその「何か」は、半世紀後に起こった妻の死と、どのような形でつながっていくことになるのか――たしかな自分自身を求めて、時間の流れを行き来していくその遍歴の先に見えてくるものを、ぜひたしかめてもらいたい。(2008.12.27)

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