【筑摩書房】
『ザ・ヌード』

ケネス・クラーク著/高階秀爾・佐々木英也訳 



 2010年12月に東京都で可決された「青少年健全育成条例改正案」について、マンガやアニメなどの描写が「不健全」と判断され、不当に販売規制の対象とされるかもしれないということで、以前からネットなどで大きな話題となっていた。性交や性交類似行為を不当に賛美したり誇張するような描写や表現は、たとえ被害者が存在しない実写以外の表現物であっても規制の対象となりうる、というのが大まかな内容で、いろいろと問題のある条例であることはたしかなのだが、今回私が本書『ザ・ヌード』を手にすることになったいきさつは、この東京都の条例が大きく関係している。

 そもそも何をもって「性的感情を刺激」すると判断されるのか、という点についての興味は以前からあった。たとえば、裸の女性が描かれた絵画や彫刻などは、それこそ紀元前の時代から存在してきたが、そうした芸術作品として出てくる女性の裸と、エロ漫画に出てくる女性の裸との違いがどこにあるのかについて、どこかに明確な判断基準があるなら、それを探りたい。本書は人間の裸を表現したものを「裸体像(nude)」という単語を用い、たんに衣服を剥ぎ取られた状態を示す「はだか(naked)」と区別したうえで、人間の裸体像を表現するという行為の歴史とその意義について、いくつかのカテゴリーに分けたうえで解説している作品であるが、それは同時に、芸術家と呼ばれた人たちが、人間の裸体について何を求め、何を実現したいと願ったかという熱い情熱と尽きない意思の歴史でもあった。

 肉体への信頼とは何よりもまず、人間の全体性に関する彼らの感覚の表現にほかならない。――(中略)――この、肉体の美しさにはいかに多くの意味がこめられているかという真面目な意識が、官能性と審美主義という二つの悪から彼らを救ったのである。

 上述の引用にある「彼ら」とは、古代ギリシャ人のことを指す。そして本書では裸体像という造形表現が、古代ギリシャにおいて確立されたものという骨子に基づいて論を展開している。古代ギリシャといえば、私たちにとってはまさに神話の時代――神々が人の姿をとり、人間世界に干渉してきたという神話と強く結びついている印象が強いが、じっさい古代ギリシャにおいて、アポロンやヴィーナスといった神々の裸体像が彫刻されてきたというのは有名であるし、本書でも多くの作品がとりあげられている。そして、彼らが神と呼ばれる超越者である以上、その容姿においても神の身分にふさわしい、完璧な肉体を有していなければならないと考えるのは、至極自然な流れと言える。

 古代ギリシャ人にとっても、ルネッサンス期の芸術家にとっても、裸の肉体は現実の、ありのままのそれではなく、こうあるべきという理想のもとに再構築されたものであり、だからこそ裸体像は芸術たりえていたということが、本書を読み進めていくと見えてくる。そして古代ギリシャ人の思想や哲学において、神々と人間とはある種の近しい関係性があった。力強い男性の裸や、美しい女性の裸の理想像を追求することは、そのまま神への畏敬へとつながるものであり、それは彼らにとって神聖なものでもあったのだ。

 だが同時に、裸体像を表現するということは、それだけの精神性や信念が必要だということを物語ってもいる。それは言うまでもなく、人間の裸に対して人間がいだく官能性と深い関係があるわけだが、裸体像が歩んできた歴史は、人間が人間であるがゆえに意識せずにはいられない劣情との戦いであり、裸は衣服によって覆い隠すべきもの、すなわちおおっぴらに人の目にさらすべきものではない、とする社会的風潮によって、どのような変遷を余儀なくされていったかを示すものでもある。

 私たちはふだん、裸のままでいることはない。外に出て人と会ったりする場合に、かならず何らかの衣服を身にまとい、自らの裸体を覆い隠す。そしていつしか、衣服やアクセサリーで着飾ることが個性であるかのように思い込んでいるところがあるのだが、もし自身の肉体に絶対の自信があるのなら、裸でいるということに何ら恥ずべきところはない、という論理が通用することになる。じっさい、ボディービルダーが見せつける肉体は、まさに見せる(魅せる)ための筋肉への誇りや陶酔があるからこそのものである。だが、たんに肉体美を求めるのなら自らの体を鍛えればいいし、官能性を追求するのであれば、それこそ異性とのペッティングにはげめばいい。芸術家がなぜ裸体像を描き、あるいは彫刻を彫るのか、そしてどのような思いを表現するために、どのような裸体を創造していくことになったのか、という点に目を向けたときに、私たちはその作品から官能や気まずさといった感情ではない何かを受け取ることになる。

 幾何学的ともいえる均整のとれた肉体や、いまにも躍動しそうなほどの運動力を裸体に封じ込めた古代ギリシャ人、キリストの悲劇性を表現するために裸体の磔刑を彫った彫刻家、風景の一部として女性の裸体像を盛り込んだ画家――本書にはじつに多くの裸体像美術が登場する。裸体を際立たせるための衣紋と呼ばれる技術や複数の裸体の構成によって生じる効果、運動する肉体の緊張感をどのように表現するかなど、技術的な知識についても興味深いのだが、いくつもの裸体造形が娯楽や装飾へと変転していくなか、ひとつの芸術として評価される裸体は、それを扱った人間の、裸に対する認識の変遷を物語っている。

 とくに、宗教性という同一のカテゴリにありながら、ギリシャ神話では力強さ、畏敬の念をいだかせるものの象徴として扱われていた裸体が、キリスト教においてはより精神的なもの、運命に破れた悲劇性を象徴するものとして扱われているという事実は興味深い。昔も今も、宗教とは他ならぬ人間が生み出した概念だ。ひとつの個としてはかぎりなく貧弱な、人間という存在を支える思想が宗教であるとすれば、その宗教を表現するための裸体もまた、その時代の人間の意志の産物であることに間違いはない。

 本書は現代の美術学校でとりあげられている裸体像のデッサン――きわめてアカデミックな、しかしかぎりなく非人間的な裸体像の表現に対するアンチテーゼの意味合いを含んでもいる。モデルとしての女性の裸体を、それこそデッサンの対象としてしかとらえることのないありかたでは、それこそただの「はだか」であって、芸術としての「裸体像」ではない。しかし、人間が裸体と向き合うということは、ふだんであれば隠されている人間の恥部と対峙することでもある。本書は裸体像がかもしだす官能性を、ただそれゆえに否定はしない。そうした劣情もふくめて、裸体という対象によって想起されるさまざまな感情や想像もふくめたうえで、裸体像というものを取り扱っている。冒頭の条例のことを考えたときに、はたして現代を生きる私たちに、裸体像がふくむ芸術性というものがどこまで理解されているのだろうか、という思いにとらわれずにはいられない。(2011.03.20)


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