【早川書房】
『ザ・ロード』

コーマック・マッカーシー著/黒原敏行訳 



 たとえば、クジャクなどのある種の鳥類のオスの羽が豊かな色彩をもっているのは、その色によってメスの関心を引くためであるし、植物が色とりどりの花を咲かせるのは、その色彩で虫たちをひきつけ、受粉させるためでもあるのだが、さまざまな色合いというものは、それをアピールする対象が存在するからこそ意味を成すものだと言える。そして私たち人間もまた、着飾る服をはじめとして、生活のなかに色彩感覚を取り入れることによって、その存在をアピールすることに余念がない。そういう意味で、色彩というのは生命の象徴であり、さらには自分と自分以外の何かとのつながりの象徴でもある。自分がどんな姿をしているのかを気にするのは、自分以外の誰かの目があるからにほかならず、そうでなければ、自分の姿はおろか、自分が自分であるという意味すら失われてしまうことになる。

 今回紹介する本書『ザ・ロード』の世界は、色彩というものがほとんどない。空を常に覆っている分厚い灰色の雲、地面を覆い尽くす灰、木々は立ち枯れ、動物の気配もなく、わずかに流れる水まで灰色という徹底して色彩の失われた世界を、名前もない親子が南を目指して旅をするという本書において、すべてを埋め尽くす灰色は、そのまま人が人であるための要素そのものが死滅した世界を意味している。

 本書を読み進めていくにつれて見えてくる、およそ人類の文明らしきものの残骸しか残されていないように思えるこの世界――はたして、この世界は本当に何もかもが死滅してしまったのか、それともどこかに希望が残されているのか、そもそもこの世界に何があったのか、という疑問は、本書を読むさいにはほとんど意味を成さない。核戦争、核の冬、そうした単語を思い出させる要素はあちこちにあるものの、そうした説明が圧倒的に無意味な世界が本書には広がっている。そしてじっさい、本書に登場し、すべてが死に絶えたように思える灰色の世界を旅する親子にとって、そうした説明は意味がない。彼らにあるのは今を生き延びること――寒冷化で今の場所では冬を越せないとさとった父親が、ひとり息子をつれて南へ、とにかく南へ移動するという、なんの根拠も長期的展望もない目的だけだ。

 この道には神の言葉を伝える人間が一人もいない。みんなおれを残して消え去り世界を一緒に連れていってしまった。そこで問う。今後存在しないものは今まで一度も存在しなかったものとどう違うのか。

 小説というのは人間を描くものであり、それは必然的に人と人との関係を描く、ということになるのだが、本書の世界の場合、人と人との関係における「人」の要素がほとんど存在しない。いや、人は存在するのだが、それらは人というよりはむしろ「もとは人であったもの」という表現のほうがふさわしい。なぜなら極端に食糧の不足するその世界で、人々は同じ人間の肉を食糧としていると思われる描写に、私たちはその親子の目をとおして何度も出くわすからである。そして父親は、自分や自分の息子もまたそうした野蛮人たちに狙われているということを知っている。

 私たち読者が本書を読んで、そのどうしようもないほどの希望のなさに言葉を無くすのは、私たちがかつての世界――さまざまな問題をかかえてはいたが、それなりに高度で便利な世界の姿、何より多くの人たちに溢れていた世界の姿を知っているからに他ならない。それゆえに読者は、おもに父親に対してより感情移入して本書を読み進めていくことになる。かつてあった豊かな色彩の世界を知っていて、なおその世界が決定的に壊れてしまったという事実を承知している父親が、それでもなお生きていこうとするのは、息子の存在があるからであることは想像にがたくない。彼らが南へ旅する以前にどこでどのような生活をしてきたのか、本書には言及されてはいない。だが、世界が破滅したまさにその時代に生まれたひとり息子が、絶望しかないような世界のなかで、まぎれもないひとりの人間としてその尊厳を保てるよう、最大限の努力をしてきたことは、誰もが自分が生きることだけで精一杯な世の中にあって、飢えて苦しむ他人を可哀想に思うだけでなく、なけなしの食糧さえ分けてあげようとするその態度を見れば容易に理解できることである。

「ただ生きてさえいればいい」という言葉を、私たちは耳にする。だが、ただたんに生きているという状態が、真に人間性をともなうものであるという幻想を、本書の世界はことごとく打ち砕いていく。そういう意味で本書は、天災のごとき殺し屋を描いた『血と暴力の国』の著者らしい作品であるが、そんななかで息子の存在は、読者だけでなく、父親からしてもひとつの奇跡のようなものだ。そして、父親がそうであるように、読者もまたなんとかして息子だけでも生きのびてほしい、できうるなら希望をもっていてほしいという願いをもつ。人間らしく生きるという、ただそれだけのことがこのうえなく困難な、この過酷な灰色の世界――そんななか、息子の存在は父親にとっての生きる目的である以上に、人類が人類であるための希望でもあると言える。ふたりがたびたび口にする、自分たちが「火を運んでいる」という表現は、すべてが灰色の世界においてほとんど唯一と言っていい鮮やかな色彩を連想させるものであり、また灰に覆われた世界を闇とするならば、その対極としての光を象徴するものでもある。

 火を吹き消すことは簡単だ。だが、一度消えた火をふたたび灯すのはこのうえなく難しい。そういう意味で、意図的に火を吹き消すどころか、放っておいたらあっという間に絶えてしまう世界のなかで、その光=人間性をどのようにして保ちつづけていけるのか、というひとつの挑戦であり、またひとつの祈りでもある。それはどこか、人の意図を超越した何か大きい意思をもつものさえ連想させる。

 かつては町と町をつなぎ、人や物を運ぶために敷かれた道路は、しかし人間の文明が破滅してしまった本書の世界では町という概念同様、意味を無くしてしまった多くのもののひとつである。そんな道路をひたすら南へ向かう親子が、その先にどのような結末を迎えることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.10.06)

ホームへ