【白水社】
『王』

ドナルド・バーセルミ著/柳瀬尚紀訳 

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 たとえば、日本に行ったことのない外国人に日本の印象を訊いたときに生まれるイメージについて、思いを巡らせる。彼らの思い浮かべる日本では、いまだに男はちょんまげ、女は日本髪を結い、衣裳は着物で、武士になると腰に脇差を帯び、忍者が企業の秘密をめぐって暗躍を繰り広げ、ノルマを達成できなかったサラリーマンは切腹して責任をとる、ということになっているらしい。多少大袈裟になってしまったが、このように歪んだ形で伝わってしまった日本という国をまのあたりにしたとき、日本人である私たちは必ず、今私たちが生きている現代という時間と、侍が実在していた江戸時代という時間を考慮し、同じ国のふたつの時代の間に横たわる時間の隔たりに対して、違和感を覚えることになる。

 イギリスという国は、その正式名称(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)からもわかるように、王国である。つまり、その頂点に国王をいただく王政国家だ。だが、議会制民主主義発祥の地でもある現代のイギリスと、専制君主制があたりまえだった中世のイングランドとは、同じ国であっても、そこには大きな隔たりがあるのは言うまでもない。本書『王』は、戦闘機や戦車が戦争の主流となっていた第二次世界大戦の時代に、イギリスの伝説的英雄であるアーサー王と円卓の騎士たちを登場させることによって生ぜずにはいられない違和感を描いたものであり、もはや使い古された英雄伝説や騎士物語に対する、一種のパロディーだと言うことができるだろう。

 トーマス・マロリー作の『アーサー王の死』に代表される、一連のアーサー王伝説について、まったく知らないという人は、おそらく誰もいないだろう。鉄床に突き刺さった剣を抜いて、大魔法使いマーリンの予言どおりイングランドの王となったアーサーが、各地を平定し、また敵対国を打ち破って成長していく物語や、伝説の聖杯の探索、また王妃と愛人関係を結んでしまった最強の騎士ランスロットとアーサーとの戦いや、彼の実子であるモルドレッドの謀反など、その後に生まれてくる多くの作品にその影響をおよぼすことになる騎士物語であるが、その物語のなかではスコットランドやローマ帝国など、敵対国を次々と打ち倒していったアーサー王も、騎士道が完全に形骸化し、多すぎる競合勢力との協定や陰謀、策略など、複雑化してしまった近代においては、なかなか思うようにいかず、のみならず、自分の国においてさえ、労働階級たちのハンストに手を焼く有様。ランスロットはもはや時代遅れであるのが明らかな一騎打ちで戦いを挑みつづけ、長引く戦争で外にも出られず、いいかげん退屈してしまった王妃のグウィネヴィアは、ランスロットばかりでなく、他の騎士たちとも情事を重ね、しかもそのスキャンダルが瞬く間にマスコミに広がり、ラジオに報道されたりする。頼みのマーリンはもはやおらず――科学の時代に魔法というイレギュラーは相容れない、ということか――代わりに道化役の一文無しウォールターが、騎士物語はもはや用済みだと触れ回る。

 銃という強力な飛び道具の登場とともに、騎士という職業が廃れていくなか、あえて騎士道をまっとうしようとする男の姿を描いたセルバンテスの『ドン・キホーテ』は、戦争に限らず様々なところで近代化が進み、それゆえにリアルを失っていく世の中に対する一種のアンチテーゼであったが、本書において意図されているのは、騎士道が意味をなくしてしまった近代に放り込まれた登場人物たちが、時代遅れであることを自覚し、卑屈になりながらも、それでもなお「アーサー王伝説」として自分たちの役割を演じつづけなければならないことに関する滑稽さではないだろうか。かつてコミック評のところで、使い古された勇者伝説を、それでも演じなければならない登場人物たちが、意図的に勇者伝説の王道を逸脱しようとする様子を書いたことがあるが、本書の登場人物たちは、その境遇に不満を述べながらも、それでもあくまで自分たちの知る価値観に無理やり世界をあてはめようとする。伝説の聖杯を「万人を永久に幸せにする爆弾」だと思いこんだり、ランスロットのグウィネヴィアに対する愛情を無理やり理由づけしようとしたり……そしてアーサー王自身が、マーリンの予言である自身の死という悲劇を、心の中では待ち望んでいたりする様子は、さっさとこのくだらない茶番を終わらせて、自分たちが本来いるべき場所に戻りたい、という思いに満ち満ちているようにも思える。

 そもそも、核ミサイル発射ボタンひとつですべてにけりがついてしまい、戦争を起こすに起こせない冷戦時代、そしてネットの発達によるインフォメーション・ウォーの時代を生きる私たちにとって、場合によっては百年もかけて悠長に戦争をつづけることのできた中世の戦争は、じゅうぶん滑稽なものであるが、物語のほとんどが会話によって成り立っているという、一種の戯曲形式の文体や、物語の合間に差し挟まれる、どこの誰ともわからない第三者たちの、幕間劇ともいえる会話の存在は、本書のリアリティーをとことん削り取り、そもそもすべてが仕組まれた茶番でしかない、ということをより強調する役割を果たす。そしてけっきょくのところ、現代版「アーサー王伝説」は、伝説と呼ぶにはあまりにお粗末な代物と成り果て、冒頭では血気盛んにあちこちを飛び回っていたランスロットも、最後には疲れ果ててしまい、もはや林檎の樹の下で眠ってしまわざるを得なくなるのだ。

「王か」と、アーサーは云った。「王、王、王。根本的に馬鹿げた考えだ。片方の男が片方の男より血筋が優れているなどとは。――(中略)――ああ、王だというのは大層なことではない。ところが一方、わたしは王ではなかったためしがないから、それがどういうものなのかさっぱりわからないのだ。――」

 ところでアーサー王という存在は、歴史上に実在したのだろうか。彼が活躍したのは五世紀から六世紀ということになっているが、研究すればするほどわからなくなってくる、というのが実際のようだ。確かな文献がほとんど残っておらず、吟遊詩人の伝承によってのみ伝えられた伝説は、多くの時間をかけてさまざまな形の伝説を生み出し、それらを総合した結果、今のような物語ができあがったらしい、というのが一般的な解釈となっている。

 イギリス人たちの伝説として形作られていったアーサー王の像――そういう意味では、たしかに本書中のアーサー王は、つくられた存在としての自分を自覚していたと言うことができるだろう。だが、自分自身が伝説である彼には、たとえどんな場所であっても、アーサー王として演じる以外にどうすることもできないのだ。
 メタフィクションの『王』は、誰かが自分が裸であることを告げてくれるのを待ちながら、今もなお街中を行進しつづけている。(2000.10.04)

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