【講談社】
『穴』

ルイス・サッカー著/幸田敦子訳 

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 あなたは自分がツイている方だと思っているだろうか。それとも、自分はツイてない方だと思っているだろうか。おみくじや占い、風水、あるいは縁起やジンクスなど、人間というのはとかく自分の運勢というものを気にする生き物であるが、その人にとって何が幸福で何が不幸なのか、といったことは、人生をより長いスパンでとらえたとき、一概に判断することのできないものだ、ということがわかってくる。なぜなら、幸不幸、あるいは運不運といった要素は、それを受けとる側の考え方ひとつでどうとでも変わってしまうものだからである。

 人は自由で平等だ、というのはよく耳にする言葉であるが、それがこの世界の真実だと本気で考えている人が、いったいどのくらいいるだろうか。私たちは、自分たちの考えている以上にさまざまな関係や制約によって縛られた存在であり、また身分や地位、自分を取り巻く環境といった点で、歴然とした差異があることも承知している。そして私たちは、いついかなるときも、そうした理不尽な世の中に対して常に対決していけるだけの強さを持ちつづけているわけでもない。その人の身の上に起こった都合のよくない出来事に対して、「運が悪かった」「ツイてなかった」という何の脈絡もないことを結びつけて片づけることができる、というのは、ある意味じつに都合の良い避難場所を得るに等しいことなのだ。だが、当然のことながら、いつまでもその避難場所に閉じこもっているわけにはいかない。

 それもこれも、あんぽんたんのへっぽこりんの豚泥棒のひいひいじいさんのせいだ!

 さて、本書『穴』に登場するスタンリー・イェルナッツ四世は、まったくもって「ツイていない」少年である。それも、生まれてこのかたツキが味方してくれたことなど一度もないという、筋金入りの不運な少年だ。今回も、盗んでもいないスニーカーを――とある有名な大リーグ選手のスニーカーを――盗んだかどで有罪となり、草一本生えない荒野の真ん中にある矯正施設「グリーン・レイク・キャンプ」にぶちこまれ、来る日も来る日も乾いた大地に穴を掘らされる羽目になってしまう。どうもイェルナッツ家の人間は、代々「まずい時にまずいところに居合わせてしまう」妙な才能があるらしい。なんでもずっと昔、彼のひいひいじいさんが片足のジプシーばあさんから豚を盗んだため、子々孫々にいたるまで呪いをかけられたのだという。

 本書はそんな、孤立無援に等しい、絶望的な状況に陥ってしまったスタンリーが、「根性を養うため」「人格形成のため」と称して問題児たちに穴掘りをさせる所長以下、施設の大人たちが何か重大な秘密を隠していることを察し、最終的には五代にわたって連綿とつづいていたイェルナッツ家の抱える不運を一気にひっくり返してしまうような大逆転劇を演じてしまうという、なんとも不思議な物語である。

 何の力もない小さな子どもたちが、意地の悪い大人たちをまんまと出し抜いて大活躍をする――マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』を筆頭に、児童書としてはまさによくあるパターンを、本書もまた色濃く受け継いでいるのは間違いないが、私がそれでもなお本書を「不思議」だと思ったのは、スタンリーという少年が、およそトム・ソーヤのように快活でもいたずら好きでもなく、まして胸のすくような機転を利かせられるような性格を持ち合わせてもいないにもかかわらず、トム・ソーヤもびっくりの大逆転をしでかしてしまう、という点によるものである。

 太っちょで、勉強でも運動でもパッとしない、いじめられっ子のスタンリー ――なにより彼はツキに恵まれていない。これは、物語の主人公としては致命的な短所だと言ってもいいものだ。常に「まずい時にまずいところに居合わせてしまう」彼にとって、行動するということは、それだけで悪い事態を引き起こしてしまう、ということでもある。そんなスタンリーがもし、とんでもない大活躍をすることがあるとすれば、これはもはや、本人がけっして意図することのない偶然に頼るしかない。それもただの偶然ではない、先祖代々にわたるツキのない人生を一気に吹き飛ばしてしまうほどの、奇跡のような偶然の連鎖反応が必要なのだ。

 本書にはスタンリーを中心にした物語の筋書き以外に、彼のひいひいじいさんが少年だった頃の不思議な体験や、グリーン・レイク・キャンプがまだ湖であった頃の切ない恋愛物語、あるいはスタンリーのひいじいさんが<あなたにキッスのケイト・バーロウ>にみぐるみはがされたときの話など、いっけんすると本筋とは関係なさそうな過去の物語が平行して語られるのだが、そこに出てくる、なんでもなさそうな小さな要素――それはたとえばミセス・ゼロームとの約束であり、黒人のサムがどこかからとってくる不思議なタマネギであり、キャサリンがつくるとびっきりのピーチ・ジャムであり、「神の親指」であり、あるいは荒地に生息する猛毒の黄疸とかげの性質だったりするのだが――そうした要素のひとつひとつが、物語が進むにつれ、じつはスタンリーが引き起こす奇跡の大逆転劇の伏線となっていくのがわかってくる。

 もちろん、虚構の世界において、なにもかもが偶然の一言で片づけられてしまう、というのは反則であろう。だが、完全にツキに見放されたスタンリーにとって、意図的な行動などまったく無意味なものでしかない。数多くの伏線を、伏線と思わせないまま話が進み、しかし最後にはそれらの伏線が見事なまでにピタリとあてはまってしまう、という爽快さ――しかし、スタンリー自身はまったく意図していないそうした偶然の連鎖反応こそが、本書の最大の特長であり、また読みどころでもあるのだ。

 イェルナッツ家の人間は、自身に降りかかる理不尽な出来事に対して、ただ受け入れることで対処してきた。「ひいひいじいさんのせいだ」という毒づきは、彼ら一族特有のジョークであり、けっしてひいひいじいさんにかけられた呪いを信じているわけではない。だが、その言い伝えが彼らにとってじつに都合の良い避難場所であったことはたしかだ。けっして希望を失わず、再び第一歩を歩いていくための避難所――スタンリー・イェルナッツ四世が、おそらくはじめてになるだろう、その避難場所から自分の意志で第一歩を踏み出したとき、彼の知らないところで奇跡的な偶然の連鎖の歯車が動き出すことになった。

 最後に、スタンリーのこんな言葉でこの書評を締めくくろう。いかにもイェルナッツ家の人間らしい考えかたである。

 靴が空から降ってきたとき、スタンリーは、運命の靴だと思ったのを覚えている。いま、あらためて、そう思う。ただの偶然なんかじゃない。あれは運命だったのだ。
(2003.04.03)

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