【光文社】
『崩れゆく絆』

チヌア・アチェベ著/粟飯原文子訳 



 かつてヨーロッパの国々がアフリカやアジアを植民地化し、そこに住む人々を虐殺したり奴隷化したりしていた、というのは周知の事実であるが、それは近代化された自分たちの文明こそが、人類の行き着いた最先端であるという強い自負があったからだというのが一般的となっている。つまり彼らの目からすれば、当時のアフリカやアジアの文明はまだまだ未開であり、原始時代に等しい野蛮な段階でしかないということになる。自分たちこそがもっとも高度に文明化されているというある種の偏見があったからこそ、彼らは自分たちの植民地化という暴挙を「未開の地を文明化させる」という名目で正当化することができた。ヨーロッパの人々にとって、植民地の人々は自分たちよりも一段下の段階にあるというのが、彼らにとっての「常識」であったのだ。そしてそうであるからこそ、以前の自分たちの状態にとどまっているように見えるアフリカやアジアの国々に対して残酷になりえたとも言える。

 もちろん、相対主義が一般的となった現代において、その考えは間違いであることがわかっている。ヨーロッパの人々にとって未開のように見えるからといって、その土地の文明そのものが否定されていいわけではない。だが、こうした考えは当時はまだまだ一般的ではなかった。よくテレビなどで地域紛争の話題になったさい、かならずいっぽうの国だけでなく、相手の国の立場についても言及されるのだが、そうした相対主義的な考えは、じつはつい最近になって受け入れられたにすぎない。それどころか、植民地化された人々にとっては侵略者たるヨーロッパ人たちのほうが、当時はよほど未開の地の野蛮な人たちのように見えたに違いない。今回紹介する本書『崩れゆく絆』は、そんな植民地化されていくある部族の悲劇を書いたものであるが、本書を読み進めていくと、その視点はかならずしも主人公であるオコンクウォの属するウムオフィア村の古くからつづく文化や風習について、無条件に擁護しているわけでないことが見えてくる。

 オコンクウォは、ウムオフィアではひとかどの人物として評価を得ている人物として登場する。財も称号もなく、怠け者で人から借金ばかりしていた父親とは異なり、もともと頑健な体の持ち主である彼は、若くして九つの集落の最強のレスラーとしての名声を得ていたのだが、それ以上に貪欲なまで勤勉ぶりで一財産を築きあげるだけの才覚も持ち合わせていた。だがそこには、情けない父親のような人物にだけはならないという恐れのような思いが隠されており、その恐れはときに過剰なまでの男らしさを振りかざすこと、より具体的には妻や息子たちに対する暴力や脅しといった形で表わされることもあった。自分の家族を愛していないわけではない。ただ、オコンクウォにとっての「男らしさ」、家族の長としての威厳を維持するための方法として、力で相手を屈服させるというのがあり、それが彼の属する村の「常識」でもあったことが、本書からうかがえるのだ。

 全部で三部構成となっている本書のなかでも、ウムオフィアでの日々の生活に焦点をあてた第一部がじつは全体の半分以上を占めている。呪術がいまだに有効であり、先祖の霊や精霊といった存在が人々の生活に大きな影響をおよぼす世界は、どこかエキゾチックなものがあるのはたしかであるが、より重要なのは、男らしさというものに過剰なまでに重きを置くところのあるオコンクウォが、しばしば村の慣習を逸脱するような行為に走ってしまうことがあるという事実である。じっさい、その短絡的な行動のせいで彼はある事件を起こしてしまい、家族とともに七年ものあいだ村から追放されることになるのだが、それはオコンクウォという個が、ウムオフィアという集団にとってどこかなじむことのできない存在であることを示すものでもある。

 人は自分のチが操る運命を超えることができない。長老たちは、人がよしと言えばチもよしと応えると言うが、この言葉は間違っていたのだ。自分がいくら肯定しても、チに否とつきつけられる男が現にここにいるのだから――。

 そう、オコンクウォはけっして白人たちに征服される部族の象徴として登場するのではなく、あくまでひとりの個としての役割を与えられた存在である。私は本書について、植民地化されていくある部族の悲劇を書いた作品だと書いたし、じっさいにそれは間違いでもないのだが、もっとも長い第一部において、白人たちのことはほとんど言及されることはない。それまでにない宗教や政治、経済観念をもった白人たちの存在が、急激にクローズアップされてくるのは、オコンクウォが村から時限的に追放された第二部以降になってからなのだが、仮に彼が村から追放されていなかったとしても、白人たちが村におよぼす影響をどうにかできたとは思えない。問題なのは、あくまで彼個人の資質という点に尽きるのだが、その主観が自身の属する集落の「常識」ととらえられてしまっているところに、本書の悲劇性がある。

 言うまでもないことであるが、世のなかに変わらないものなど存在しない。オコンクウォが思い描いているウムオフィアは、強さの象徴としてのウムオフィアだ。戦争においては敵なし、呪術の威力においても最強で、周囲の村々から怖れられているウムオフィア――だが、その集落の古くからのしきたりとの微妙なズレは、本書の第一部においても少しずつ書かれている。そのもっとも象徴的なものが、彼の集落が他の集落から人質としてつれてきた少年イケメフナと、オコンクウォの息子のひとりであるンウォイェだ。オコンクウォにとって、より男らしさを体現しているのはイケメフナであり、ある意味で息子以上に大切にしてきたところがある。だがある日、村の神託によりイケメフナは殺されることが決定してしまう。村の神託である以上、その決定は絶対であるはずなのだが、そのことにオコンクウォは言いようのない違和感をおぼえてしまう。それは、彼のなかの集落の価値観と、現実の村落の価値観とのズレが明確になった最初のものであるが、こうして考えてみると、ヨーロッパ人による植民地化以前に、すでに彼の悲劇の火種はあったということになる。

 白人たちによる外部からの視点は、もともとオコンクウォのなかにもあった視点をより顕著にしたようなものであり、けっきょくのところ彼らの価値観によって、ウムオフィアは「文明化」されたというひと言で片づけられてしまう。だが、そうなってしまった要因はけっして植民地化政策のせいばかりではなく、それ以外にもさまざまな要因が複合的にはたらいた結果であることが、本書には書かれている。そしてそれこそが――あるひとつの出来事を簡易な言葉で置き換えるのではなく、ひとつの物語によって語るということこそが、本書の趣旨だと言える。オコンクウォの身に訪れた悲劇は、けっして興味深いエピソードでも、また「ある集落の平定」でもなく、間違いなく生きた人間の記録であるということであり、それはけっしてひとくくりにされるべきものではないのだ。

 オコンクウォは悲嘆にくれた。単なる個人の悲しみなどではない。いままさに目の前で崩れてゆき、ばらばらに壊れつつある一族を思って嘆いた。――(中略)――男たちは、まったく不可解なほど、女々しく軟弱になってしまったのだ。

 オコンクウォの理想とするウムオフィアも、ヨーロッパ人たちが自負する文明の最先端も、けっきょくのところきわめて一方的な偏見によって築かれていったものにすぎず、ある文化では正統であっても別の文化では異端になることなどしょっちゅうだ。そして相対主義が主流となった現代においても、自身が無自覚なままに陥ってしまう偏見を意識することは難しい。あくまで、ひとりの人間としての悲劇を描いた本書に、はたしてあなたはどのような感想をいだくことになるのだろうか。(2014.01.31)

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